2009年11月15日

ボヴァリー夫人

  シネ・ヌーヴォにて『ボヴァリー夫人』 (アレクサンドル・ソクーロフ監督)を鑑賞。

私としては、『チェチェンへ アレクサンドラの旅』で初めて触れたアレクサンドル・ソクーロフ監督でした。
20年前に撮られたこの『ボヴァリー夫人』が今回新たにディレクターズカットで生まれ変わり、「フローベール没後130周年記念ロードショー」として上映されると知り、前売り券を買って待ち望んでいたのでした。

決して安易な心持ちで臨んだ鑑賞ではありませんでしたが、心底、息を飲みました。
激励なほどに圧倒され、打ちのめされた私なのでした。

story
厳格な修道院を出て町医者のシャルル・ボヴァリーに嫁いだエマ(セシル・ゼルヴダキ)だったが、凡庸な夫との田舎の単調な結婚生活は死ぬほど退屈なものになっていく。徐々に生気を失い、情事や浪費に耽った末にエマが破滅に至るまでを描いた、仏文学を代表するギュスターフ・フローベールの名作「ボヴァリー夫人」を鬼才アレクサンドル・ソクーロフが映画化。完成は1989年だが、2010年に作家の没後130年を迎えるのに先駆けて日本公開となる本作は監督自ら再編集したディレクターズ・カット版である。(story、写真とも映画情報サイトより転載)

                  ボヴァリー1.jpg

 この映画は、フローベールの小説「ボヴァリー夫人」とは別のものだった。
一度監督の中でこの小説が飲み込まれ、破壊され、再構築された、そんな感じだった。

冒頭から既に漂う背徳と退廃の匂い。
終始聞こえる蠅の羽音にも空気の澱みを感じ、私はベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』を想起していた。そういえば、あそこにも“堕ちていく”姿があった。

「祈り、救いたまえ」とは映画の原題。

オープニングとエンディングの曲は荘厳で、それは監督の“エマへの祈り”に他ならないと感じられた。このオープニングの醸す世界から既に、すっかりこの作品に魅入らされてしまっていた私だった。

謂わばこの作品は、最後のエマの埋葬シーンの為に紡がれたものかもしれない。
それほど、それまでの狂気をも漂わせた生きたエマとは打って変わって、幾重もの棺に納められた彼女はただ“横たわる静かな魂”だったのだ。まるで慟哭から解放されてやっと初めて安らぎを得たかのように。

夫シャルルの一挙手一投足が哀しいまでにひどく滑稽なことに加え、至るところに見える誇張を伴うグロテスクな描写や、エマの陶酔しきった呟きと嘆きの絶叫など、全てが象徴的で観念的な世界を創り出していたように思う。
エマの容姿は標準の美意識からは大きく逸脱したもので、夫シャルルの身体も醜悪ささえ感じさせるものだった。しかしそれだけにそれらの描写は生々しく、生身の「肉」を感じさせた。
全ての人物がそれぞれの描き方に於いて“醜い部分”を滲ませ、そしてそれぞれの堕ち方で破綻していく描写に、恐ろしさを感じると共に何故か魅せられてしまう私だった。それほどまでに強烈な力を持った描写のされ方だった。

「祈り、救いたまえ」

エマへの祈りが聞こえる。
圧倒され、打ちのめされ、顔を背け、それでも再び魅せられていく…ただただ言葉を失う128分だった。



                 あん.jpg
                 
 さて、久々に我が家の猫くん登場。
陽の射す方を見つめて何を考えている?

明日がささやかでも幸せであれよかし。ぴかぴか(新しい)

Kママ、一日も早いご復帰を心から願っています。
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2009年11月13日

遠い海から来たCOO(再読)

  何年ぶりでしょう・・・。

不定期に駅ビルで催される古本市で見つけた『遠い海から来たCOO』(景山民夫著 角川文庫)。新刊で一気に読んだ昔日を思い出して思わず手に取り、買って帰った夜から時間を見つけて読んでいました。

初めてこの小説を読んだ時の爽快感、はじけるような清涼感、そして一抹の哀惜感は、感覚として記憶に残っていました。
当時はバラエティー番組などで奇怪な言動を発する著者を見ていたので、彼がこんなにも瑞々しい小説を書く人だなんて信じられなくて、もしかして景山民夫という人は別の人格を抱え持つ人なのではないかと真剣に考えてたくらいです。

こんなstory…
六千万年以上も昔に絶滅したはずのプレシオザウルスの子を発見した洋助。奇跡の恐竜クーと少年とのきらめく至福の日々が始まったが……。直木賞にかがやく、感動の冒険ファンタジー。

                 クー.bmp
                 
 再読した今も、だいたいに於いて当時と同じようなことを感じました。
文体はまるで外国文学を邦訳したかのような感じを受けるもので、それで先ず日常とは違う世界にすうっと引きこまれていく感じでした。
何人かの評者さんが指摘されていることですが後半にはトーンががらりと変わり、戦闘的な場面の描写が続くところがあって、その政治的決着にも納得しかねる部分は確かにあったのですが、そこを超えて、洋助とCOO(クー)の精神的感応、絆、100%純粋な情愛、そんなのを追い求めてひたすらページを繰る自分がいました。

精神感応は、洋助とCOOだけじゃなくて、犬のクストー、バンドウイルカのブルーとホワイトチップのそれぞれの間にも。
「生物」として、おそよそ全ての生けるもの達の間には交信可能な何らかのテレパシーがあるのかもしれません。そして人間だけが、その力を失ってしまったのかもしれません、別の交信手段を身に付けたことで。
物語の終盤近く、洋助の危機を悟ったイルカ・ブルーが自らの身を犠牲にして洋助を救ったくだり、朝の混み合う通勤電車の中で読んでいたにも関わらず目からじわりと涙がにじみ出てしまいました。

洋助とCOOの奇跡の出会いから(そもそもプレシオザウルスですよ!その存在だけで奇跡です!)、二人の、そして仲間の動物たちとのはぐくみ合い、闘いと来るべき別れ、未来への夢想、そんなのがたっぷりの“きらきら感”を込めて書きあげられた一冊でした。
本篇も勿論楽しめるのですが、深く静かに余韻を残す「プロローグ」と「エピローグ」の筆致は感動ものです。

  実は知らなかったのですが、本作はアニメーション映画になっているようですね。
観たい反面、原作の作品世界が果たして損なわれていないだろうかと不安で、今のところレンタルして観ようという思いに至っていません。
どなたかご覧になられた方がいらっしゃったらご意見いただきたく思います。

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  熱燗の恋しい季節ですね。
でもこちらは冷酒でいただきましたよ。先日の某店での<手取川・吉田蔵 大吟醸>です。
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2009年11月08日

マイケル・ジャクソン THIS IS IT

  「走らなきゃ」って思ってスポーツシューズのお店を数軒探し、先月やっとエアサスペンションの入ったジョギングシューズを買いました。以来、一度も走ってません。
そういえば、うちには「鍛えなきゃ」って思って通販で購入したステッピングマシーンがありますが、ずっと猫のオモチャが乗っかったままです。
こんなんじゃいつまでたってもできないよ、ムーンウォーク。(って、する気だったのか?! 私っ!)

ということで、昨日は109シネマズHAT神戸へ。
遅れ馳せながら観て参りました。『マイケル・ジャクソン THIS IS IT 』(ケニー・オルテガ監督)です。


解説 
   2009年6月、1か月後に迫ったロンドンでのコンサートを控え、突然この世を去ったマイケル・ジャクソン。彼の死の数日前まで行われていたコンサート・リハーサルを収録したドキュメンタリー。何百時間にも及ぶリハーサルを一本の映画にまとめあげたのは、予定されていたロンドン公演のクリエーティブ・パートナーでもあったケニー・オルテガ。(※解説、写真ともシネマトゥデイより転載)

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MJ、凄いよ。
私は有名曲しか知らない程度の決してファンとは言えない人間だけれど、それでも心地よい興奮が収まりきらず、真っ直ぐに家路を辿れなかった。
リハを撮った映像でこれだけ興奮するのだから、本番の公演ならもしかして卒倒してしまったんじゃないだろうか。

マイケルはリハの中で「(観客に)日常を忘れさせるために・・・(観客を)未知の領域に連れて行こう」って言っていたけれど、十分に未知の世界に連れて行ってもらった、ありがとう。
一瞬たりとも目を離せなかった華麗で研ぎ澄まされたかのようなダンスと、リハなのに熱唱のように感じられた澄んだ高音の歌声。
ステージ上のダンサー達を統率し牽引するかのようなエネルギーの帯。そして圧倒されるほどに放たれていたオーラ。

コンサートのメインダンサーのオーディションでスタッフの一人が語っていた合格の条件。「どんなに美しくてもダンスが上手くても駄目。華がなければ駄目なの。」とは、そのまま、主人公マイケルに当てはまることだったのね。彼はやっぱりステージで輝く“華”だった。

オーディションに来た人たち、合格した人も駄目だった人もみな、きっと素晴らしい踊りをしていたに違いない人たち。
人生に意味を見出したいと、マイケルと共に踊ることだけを夢見てオーディションに集ったダンサーたち。
THIS IS IT ! 「それがこれだ」、「それが今だ」、そんな叫びが聴こえ、彼らの熱意は渦をまいていた。
そんなふうにして選ばれたメインダンサーたち。ステージ上ではマイケルと同じ位置で踊り、同じ舞台を作り上げる人間として手を取り合って公演の成功に祈りを捧げる姿が印象的だった。・・・彼らはこのステージが本番を迎えることなく封印されてしまったことに、どう向き合っているのかな。希望に溢れんばかりだった彼らの表情を思い起こすに、今は胸痛む気持ちになる。

                MJ.jpg

妥協を許さず、あくまで最良で最高のものを作り上げようとする姿勢は、ステージスタッフをして「常に挑戦をし続ける」人間と言わしめ、一度仕事をした者からは「ステージを共にする相手として“頂点”」と言われるアーティストだったマイケル。
スタッフたちに、「もっとこうしたい」と自らの意志を伝えるマイケルの言葉は「怒ってるんじゃないよ、愛だよ。L・O・V・E。」だった。
「Love」「 I love you」「God bless you」は、彼の口から頻繁につむがれていた。
それが彼の姿勢だったのかな。ステージ・パフォーマンスだけじゃなく生きる上においても。


「THRILLER」「BEAT IT」「BILLIE JEAN」などには鳥肌の立つ思い。サイドの女性ギタリストのテクニックには、(私は)素人ながら唸る思い。そして、ジャクソン5時代の設定で歌っていた「I'LL BE THERE」では、「この時代が彼の原点だったのかな」と思うと胸に熱いものがこみ上げてきた。最後に流れてた「HEAL THE WORLD」「THIS IS IT」も本当に素敵だった。

リハーサルだからマイケルにとっては完全なものじゃなかったのかも知れない。
けれど、仲間たちと共に完璧なものを作り上げていこうとする“全ての瞬間”は本物であったと思うし、事実こんなにも多くの人達を魅了しているということに於いて最高のものだったと信じたい。

本作、これから観に行かれる方はどうぞ劇場が明るくなるまで席を立たないで。最後までサプライズの映像があります。
MJ、天国で安らかに。


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  興奮冷めやらず、久方ぶりに六甲道の<刀屋さん>を訪れました。美酒・美肴で映画を反芻、写真は<風の森 無濾過生こぼれ酒>と<トマトのピクルス>です。
随分と御無沙汰していたのに、常連さんに話していた『THIS IS IT』のことを耳にしてBGMをMJのアルバムに変えてくださったマスター、ありがとうございます!感激。


昨夜はもう一つのプレゼントが待っていました。7年振りのV、おめでとう。
posted by ぺろんぱ at 06:57| Comment(11) | TrackBack(1) | 日記

2009年11月01日

アンナと過ごした4日間

 幻の巨匠、幻の映像作家といわれるこの監督の名を、実は私は知りませんでした。
でもこの映画の情報をキャッチした時、同郷ポーランドの故クシシュトフ・キェシロフシキー監督の『愛に関する短いフィルム』『デカローグ第六話〜ある愛に関する物語』を思い起こし、これは是非観ておきたいと公開を待っていたのでした。

第七藝術劇場にて『アンナと過ごした4日間』(イエジー・スコリモフスキー監督)を鑑賞。

                アンナと.jpg

story
 ポーランドのとある田舎町で、病院の火葬場で働きながら、年老いた祖母と二人で暮らすレオン(アルトゥール・ステランコ)の楽しみは、近くの看護師寮に住むアンナ(キンガ・プレイス)の部屋を毎晩のぞき見ることだった。 数年前のある日、レオンとアンナはある事件に遭遇していたのだった…。(写真、storyとも、映画情報サイトより転載)


  暗鬱な空気感の中で、まるで絵画のように美しい映像が浮かぶ。
木々も全ての葉を落とした寒々とした街並み、川を流されていく一体の死せる牛、寒さに凍えながらレオンがかじる紅い林檎。
暗澹たる思いを伴うシーンなのに、何故か深く吸い寄せられるかの如く、それらは鮮やかな印象を残すほどに美しい。
極端なまでに排除された台詞であったが、時折つぶやくように語られるポーランド語の響きが哀切な世界へといざなう。

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笑っていいのかどうかも分からないほどに微かに存在を示すユーモアと、それを凌駕するほどに圧倒的に迫り来る狂おしいまでの熱情。
ただ見つめ、触れるか触れないかのギリギリの肉欲。いいえ、それは肉欲と言うには余りにも幼く、子が母なる存在を崇め慕うかのような接し方にも似ていた。
報われることはないと思うだけに、あの行為は余りに孤独で哀し過ぎるものとして映った。

汚名さえ甘んじて受け、多くの犠牲を払いながら、それでも何故アンナを見つめ続けるのか。

「それは愛、愛ゆえに。」

余りに「言葉」というものが排除された物語の中で、こんな直球的な台詞を真正面から投げつけられるとは思わなかった。
レオンが放ったこの言葉に、一瞬、心臓をぐっとつかまれたかのようになった。
こんなにも、人はただひたすら「愛する」ことだけに忠実になれるのか。愛だけが全てである世界を、人はこんなにも信じて生きることができるものなのか、と。

心の震えは、しかしながらやがて現実と向き合う。

「無情」とも「残酷」ともいえるラストだったけれど、自堕落な生活をしているかのようなアンナが、決して愚かな女ではなかったことがせめてもの救いだった。
だからこそ、レオンはアンナを見つめ続けてきたのかもしれない。アンナの過去の痛手を自らの痛みとして。
あのラストシーンの後、彼の心はどこをどう彷徨っていくのか、考えるほどに辛く切ない物語だ。

                 Mと サンボア.jpg

  映画のあとは、遠来の友・Mとお昼酒。
サンドウィッチをつまみながら、ヒルトンB1FのサンボアBARでのハイボールです。

レオンに、いつかまっすぐな愛が注がれる日々との邂逅を・・・。
posted by ぺろんぱ at 21:03| Comment(8) | TrackBack(1) | 日記

2009年10月25日

きみがぼくを見つけた日

  時空旅のロマンに浸りたく前売券を購入、梅田ブルク7で『きみがぼくを見つけた日』(ロベルト・シュベンケ監督)を鑑賞しました。

本編開始の直前、『THE 4TH KIND』という映画の予告編で流れた実録映像とやらが余りにショッキングで、本編が始まってからも暫くはその映像がフラッシュバックしてきて100%この作品に没頭できないでいました。
予告編のタイミング、考慮して欲しいです。
それにしてもあの映画、いったい何なんでしょう、いまだに怖さが甦ります。

story
  空を旅する運命を背負うヘンリー(エリック・バナ)は、どんなときにどの時代のどこへ飛ぶのかは自分で選べない。秘密を抱えた孤独な人生を送る彼は、ある日、旅先の過去で、一人の少女に出会う。やがてヘンリーは、少女から美しい心の女性へと成長したクレア(レイチェル・マクアダムス)といつしか愛し合うようになるが……。(シネマトゥデイより)

                きみが.jpg

ラストの、あの一瞬の時空の重なりのためだけに存在した一作と思える本作。
あの一瞬の“時空”と“肉体”の触れ合いこそこの映画の全て。

それまでややもすれば冷静に淡々と物語の展開を見ていた私だったけれど、あのラストには不覚にも涙してしまった。
「待つ」ということに於いて、未来への希望を胸に秘めて待つことと、喪失の現実と抱き合わせのそれとは全く別物だ。ラストのそれは、「待つこと」が即ち「喪失と向き合うこと」だったのだから。

観る前は原題『THE TIME TRAVELER'S WIFE』を何と味気無いものかと思っていた。でも観終わったあとでは、それこそが物語の世界を端的に表現したものであったのだと納得した。
時空を旅する者と共に人生を生きようと決意した女性の「愛の貫き方」がテーマに描かれていたように感じたから。

ただ、ヒロイン・クレアを演じたレイチェル・マクアダムスが私の感覚では余りにキュートでスウィート過ぎて、ヘンリーとの愛と共存に苦悩する姿に今一つ現実感が伴わず、“綺麗に仕上げられたラブロマンス”という感じにとどまったのがちょっぴり残念だったかなぁと思う。映画を楽しむならそれで十分なのかも知れないけれど。

列車の中での母親との再会シーンは別の意味で美しかった。時空トラベラー・ヘンリー自身の苦悩(彼こそが最も苦しいはず!)が哀しく切なく胸を打った。


  物語の中で語られたことによれば、ヘンリーは遺伝子異常による特異体質を持ち、時として“アルコールの摂取”がタイムトラベルを誘発してしまうらしい。
もし私がヘンリーと同体質なら、毎夜タイムトラベルの連続となること必至だよなぁ。

                Jダニエル.jpg

 某日、某BARにて、ジャック・ダニエルのオン・ザ・ロック
このあとすぐに時空旅・・・いえいえ、酔いが回ってふわふわしていただけのことです。
posted by ぺろんぱ at 18:51| Comment(10) | TrackBack(3) | 日記

2009年10月18日

悪夢のエレベーター

  映画館を出て、真っ先に青い空を見上げました。
空から注がれる太陽の光を全身に浴びたい気分でした。それだけ、救われないなぁって思った映画だったのでしょうか。

シネリーブル梅田にて『悪夢のエレベーター』(堀部圭亮監督)を鑑賞。

story
  木下半太のベストセラー小説を映画化。メガホンをとったのは、今回が初監督作となる俳優・堀部圭亮。
鋭い頭の痛みで小川順(斎藤工)が目を覚ますと、そこは急停止したエレベーターの中だった。一緒に乗り合わせたのは見るからにワケありな男女3人(内野聖陽 佐津川愛美 モト冬樹)で、非常ボタンは故障し携帯電話は電池切れ、助けを呼ぶこともできない。なぜか互いの秘密を暴露し合うハメになった彼らがそれぞれに不信感を募らせる中、思いもよらぬ事件が起きてしまう。(シネマトゥデイより)

                 悪夢の.jpg

  密室劇かと思ってたらそうじゃなかった。
序盤に見られるあざといほどの演技過剰は、あとになって解せました。
後半からの急展開にハラハラし、ホラーかと思う画には目を背け?、ある意味“ホラー以上に怖い”ラストには驚いた後でぐったりとしてしまった。

原作はどうなんだろう。
原作の作品世界もこうなのかも知れないけれど、映画としては監督はどう着地させたかったのかなぁ。
「(苦しいことがあっても)それでも、生きていけ」っていう温もりのあるメッセージが聴こえてくる以上に、素のカオル(佐津川愛美)の存在が強烈過ぎて、「苦しみを背負いながら、果たして人は生きていけるのか?」と砂を噛むような後味の悪さが残ってしまった。
その“生きることの不条理さ”や“生きるうえで、何処かで吐かれている毒”こそ描きたかったことだったのか。

ラストのあの「事実」は勿論、物語として不可避のものだ。この物語の根幹なのだから。
だけどもうちょっと「救い」を感じたかった。

「今よりも辛い日々を楽しみにして生きていけ」
嘘と綺麗事で励まされるよりも、こんな言葉の方が人はどん底から這い上がれるのかもしれない。
屋上で繰り広げられたこの言葉のシーンがとっても良かっただけに、私はむしろそのテイストを前面に出してエンディングを迎えて欲しかったなというのが正直な気持ち。


 やましいことなど何もない人間なんて、多分いないと思う。
謝らなくてはならない人や、恥ずかしい思い出の一つや二つ、あると思う。
そして、辛いことの何一つない人生なんて、多分、存在しないと思う。
だから、あのエレベーターで起こった事は、悪夢であっても、あり得ない悪夢なんかじゃない。もしかしたら、誰にでも、明日にでも起こりうる現実なんだって思った。

笑えるシーンは幾つかあった。
でも、その小笑いも消えるほど、実は凄く怖い物語だったと感じてる。



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バリ島旅行から帰国した友人がくれたお土産、猫をデザインしたお箸。
強烈な映画から帰宅のあとは、このお箸に癒されながらおつまみとお酒。かわいい
posted by ぺろんぱ at 19:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2009年10月11日

クヒオ大佐

  好天に恵まれてる三連休ですね。ささやかな喜び。
映画は梅田ブルク7で『クヒオ大佐』(吉田大八監督)を鑑賞しました。前売り券を買って臨んだのは久々のことです。

story
  米軍特殊部隊ジェットパイロット、父はカメハメハ大王の末裔、母はエリザベス女王の妹の夫のいとこ。実在した恋愛詐欺師、ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐(堺雅人)の物語。彼の嘘にまみれた人生と、彼を取り巻く3人の女たちの人間模様と恋の結末を描く。(gooシネマ情報より)

                  クヒオ.jpg
 
堺クヒオと3人の女性たち(松雪泰子、満島ひかり、中村優子)の好演が光る、可笑しくて切ない人間ドラマだったなぁ。
自分の中に潜む“愚かさ”に、苦笑いした後ちょっと愛おしく思ったりもするんじゃないだろうか。

ひたすら空想の世界に遊ぶが如きのクヒオ。
それは幼少期のトラウマから逃れる為の彼なりの“生き方”だったのだろう。そこは、かなり切ない。

ジョナサン・エリザベス・クヒオ…ああ、なんて怪しい名前。街中を軍服で歩くのも胡散くさ過ぎる。第一、詐欺師なのに間抜け過ぎる。
でも、そこなんだね。
ホステス未知子(中村優子)の台詞、「くだらなさ過ぎて…」。多分その後の言葉は「憎む気にすらならない」になるんだろうか。

3人の女性。
クヒオは騙している積もりでも、本当は3人の女性が自分の中の孤独をクヒオに投影させていただけなのかもしれない。結局は3人それぞれがそれぞれの方法で、自分の心に決着をつける。 特に学芸員はる(満島ひかり)の叫びは胸を打つ。そして、まるで同士を労るが如く彼女を諭す弁当店経営のしのぶ(松雪泰子)の言葉にもちょっと泣ける。そうやって、女たちはまた人生を歩いていくのかなぁ。

 現実と夢とが交錯する世界も描かれる。
幼少期の苦境から生まれた「空への限りない憧れ」が根底にあったと思う。
世界情勢と日米の力関係、“小ずるい”日本“大ずるい”アメリカ。そこには監督なりの社会批判が見えるけれど、そればかりを追って本作を大仰に捉えるのもちょっと違う気がする。
愛すべき、愚かで小ずるい人間たちの心のドラマだと思いたい。
「これは違う」って何処かで気付きながら、「嘘も突き通せば真実になる」と信じようとした、愚かで小ずるくて愛おしい姿は、人間誰もが持っている姿なのかもしれない。

                壱.jpg

『ゆれる』で好演の新井浩文さんと堺クヒオのやり取りは絶妙だった。
堺さんが見せる幾通りもの微笑みも然り。

こんなお酒を酌み交わしつつ、ちょっと騙され気分で飲んでみたいな、ホントは日本人のクヒオ大佐と。
posted by ぺろんぱ at 20:21| Comment(10) | TrackBack(2) | 日記

2009年10月04日

精神

  本との出会いは唐突にやってきますね。

以前、全く違う本を探しに向かった書店でふと見つけた『カウンセリングの実際』(河合隼雄著・河合俊雄編)。
                カウンセリング.jpg


カウンセラーになってみようかしらなどという不遜な思いなど微塵もないですが、ちょっと思うところあって購入して読みました。
「患者の話を黙ってじっと聞き続けることで、その患者自身も気付かなかった深層の思いがある日突然に引き出されることがある」という著述に、現場ならではの言葉の重みを感じたものです。
              

 このドキュメンタリー映画 『精神』 (想田和弘監督) は、今夏、七藝で公開となった時に見送ってしまっていた一作。
この本の影響もあってか、この度KAVC(神戸アートヴィレッジセンター)でアンコール映されると知り、観に行ってきました。

story
  岡山県にある外来の精神科クリニック「こらーる岡山」。悩める声に静かに耳を傾ける山本医師のもとには、多くの患者が訪れる。病気に苦しみ自殺未遂を繰り返す人もいれば、病気と付き合いながら、哲学や信仰、芸術を深めていく人もいる。監督は、ナレーション・説明・音楽一切なしで、被写体にモザイクをかけることなく、“病”ではなく人間1人ひとりの本質に肉迫する。(gooシネマ情報&チラシより抜粋)

                   精神.jpg               

  
 「こらーる岡山」の周辺を捉えた一瞬一瞬の画が生き生きとしていたなぁ。
通学路の女学生達、庶民的な町並み、木漏れ日、水、路地をゆく野良猫、それら全てが、不思議な安らぎを与えてくれていた。

それでも衝撃的な告白は幾つかあって、生半可に興味を抱いていたのであろう私の心をぺしゃんこに叩きのめしてくれた。
圧倒され、ただおろおろして、自分はこっちの世界にいるのだと線を引こうとしている自分に気付いたりもした。

しかし同時に、こらーるに集う人達から、何故か不思議と癒される言葉や姿が差し出され、ありのままの精神科医院の日常を捉えたこのドキュメンタリーが、実は「我々の暮らす社会」の日常の一コマでもあり、両者には同じように毒も実も共存するのだと、そんなことをやがて思ったのだった。

ここからがあっちの世界、ここまではこっちの世界と、明確な線を引くことは、多分出来ない。
線上を歩いていることだってあるだろうし、こっちの世界にいると信じていたら、足元の世界は境界をなくしていたっていうことも、多分あるのだろう、誰にでも。

こらーる岡山のドクター・山本は「一方向性のコミュニケーション」の怖さを語っておられた。
「こっちの世界」だけが「正」「是」であると疑わないことも、凄く怖いことなのかもしれない。
ドクター・山本が「とにかく、本人に話(実際の思い)を聞くことが一番大事なことだ」と言っておられたのは、先述の著の河合隼雄氏のカウンセリングの話に重なるものを感じた。

はっとさせられた言葉もあった。
「偏見は患者である自分自身の中にもあった」と語った、長い通院暦を持つ某男性。彼は、「健常者と呼ばれる人間にも完全無欠の人間など存在しない、全ての人間は何かしらの欠陥を抱えて生きている」と気付いた事でその偏見が消えたという。
スクリーンの中の人達も、スクリーンを観ている我々も、みな欠陥者なのだと知らされた。

芸術を愛しマザー・テレサを敬愛する某男性患者の、笑い声と同時に見せる一瞬の真剣な眼差しに、マザー・テレサの「善と悪」論を思い返して私は思わず身を硬くしてしまった。まるで私自身の中の善と悪を見透かされでもしたかのように・・・。


患者さん達の言葉に、ここには列記し切れない程の多くの思いを抱かされた私だった。
それだけに、エンドロールでの「追悼」の二文字があまりに哀しかった。

                
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 そんな映画の後はしみじみと一献。
posted by ぺろんぱ at 18:47| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2009年09月27日

リミッツ・オブ・コントロール

  ジム・ジャームッシュ監督の最新作『リミッツ・オブ・コントロール』をシネ・リーブル梅田にて鑑賞。
好天の休日ながら?好天の休日ゆえか?ほぼ理想的な“ガラ空き”状態でジム・ジャームッシュ・ワールドを堪能しました。

story
  「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送れ」という不可解な任務を与えられ、一人の男(イザック・ド・バンコレ)がスペインにやって来た。“孤独な男”なるコードネームを持つ彼は、任務遂行を目指してスペイン中を巡っていく。そんな“孤独な男”の前に、彼同様にコードネームを持つ名もなき仲間たちが現れ始めるが…。(シネマトゥデイより)

                  リミッツ.jpg


これは夢か、現実か。
意識上? それとも意識下の世界?

ビジュアル・インパクト大の主演のイザック・ド・バンコレは、後半に見せた一瞬のかすかな笑みを除いてはほぼ完璧なまでの無表情。
極端に台詞は排除されているけれど、哲学的な台詞は随所に遊び舞う。
全編スタイリッシュでありながら、どこか、微かな可笑しみの匂いを孕んでいる世界。
無情観、寂寥感、乾ききった孤独感を感じつつ、やはり何処か、微かに、僅かに、可笑しい。それは乾いた、ちょっと冷たい感じの可笑しみ。

丘の上に建つ、遺品の如き家具が白い布で覆われている一軒の古い家。
そこに男が辿り着いた時、「やっぱりこれは彼の意識がつくり出した非現実の世界なのだ」って思った。少なくとも私にはそう感じられた。
でもその非現実は、意識を通して“遠い昔の現実”につながっているのだ、きっと。「もう一つのエスプレッソ」を飲む女性が男の傍らにいたであろう、昔日の世界に。

そう・・・意識に、想像に、限界はないのだ。
「No LIMITS No CONTROL 」 


  男のもとに現れる謎の男女たち・・・
パス・デ・ラ・ウエルタ、ティルダ・スウィントン、工藤夕貴、ジョン・ハート、ガエル・ガルシア・ベルナル、ヒアム・アッバス、ビル・マーレイ、etc.

出演を知らなかったヒアム・アッバスとジョン・ハートには嬉しい驚き!
今年ヒアム・アッバスとスクリーンで会うのはこれで3度目だ。

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 さてこちらは違う意味で「No LIMITS No CONTROL 」の世界、ちょっぴり飲みすぎた夜。
久々に訪れたJazz Bar Wishy-Washy で。
ジン<ビクトリアン・バット>のロックちょい水。
posted by ぺろんぱ at 20:20| Comment(10) | TrackBack(2) | 日記

2009年09月22日

マン・オン・ワイヤー

 観たいと思いながら大阪での上映を見送り、季節が変わって、神戸でのこの上映を待っていました。
『マン・オン・ワイヤー』(ジェームズ・マーシュ監督)を神戸アートヴィレッジセンターにて鑑賞。

story
 1974年に、今はなきニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワーで綱渡りした伝説の大道芸人、フィリップ・プティの半生を追ったドキュメンタリー。第81回アカデミー賞ドキュメンタリー長編賞ほか数多くの映画賞を獲得。

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  ドキュメンタリーにして、フィクションさながらの、いえそれ以上の「一篇の美しい青春の物語」に触れたかのよう。

サティの「ジムノペディ第一番」の哀切な調べに乗って、フィリップ・プティの人生が最高に開花し、同時にある終焉を迎えます。
フィリップの“人生の夢”が現実のものとなるこの終盤の大きなうねりと、彼の仲間や恋人が“今、その時”とばかりに知る青春や愛の終焉。
高揚感と喪失感、その二つの融合と対比が簡潔にしてドライに描かれ、ただ差し出された結果に、私も心の中で突然にはらはらと何かが散り落ちたかのような思いにかられました。

フィリップ・プティの夢の実現に至る過程をスリリングに描きながらも、これは決してその挑戦の可否だけに焦点を当てたものではないと思います。これは彼と彼の仲間たち、ひいては彼らが生きた世代の“美しくも非永遠である青春の軌跡”を捉えた物語であると感じました。


影絵のようなノスタルジックな美しさがあり、時にアニメーションのようなコミカルさもあり、しかしながら全体を通してはフィルム・ノワールの如き孤高感の漂いすら感じさせる、それはなんとも魅力的な世界でした。


黄昏のパリの美しさ、オペラハウスの建つ蒼きシドニー湾の爽快さ、そして、今はなきWTCのツインタワーを臨むハドソン河の泰然とした佇まい。
それら全てのシーンが、彼らの人生の中で鮮やかな一頁となっていたはずです。
プティの残した、「人生はエッジを歩いてこそ意味がある」の言葉とともに。
posted by ぺろんぱ at 15:21| Comment(10) | TrackBack(3) | 日記