私としては、『チェチェンへ アレクサンドラの旅』で初めて触れたアレクサンドル・ソクーロフ監督でした。
20年前に撮られたこの『ボヴァリー夫人』が今回新たにディレクターズカットで生まれ変わり、「フローベール没後130周年記念ロードショー」として上映されると知り、前売り券を買って待ち望んでいたのでした。
決して安易な心持ちで臨んだ鑑賞ではありませんでしたが、心底、息を飲みました。
激励なほどに圧倒され、打ちのめされた私なのでした。
story
厳格な修道院を出て町医者のシャルル・ボヴァリーに嫁いだエマ(セシル・ゼルヴダキ)だったが、凡庸な夫との田舎の単調な結婚生活は死ぬほど退屈なものになっていく。徐々に生気を失い、情事や浪費に耽った末にエマが破滅に至るまでを描いた、仏文学を代表するギュスターフ・フローベールの名作「ボヴァリー夫人」を鬼才アレクサンドル・ソクーロフが映画化。完成は1989年だが、2010年に作家の没後130年を迎えるのに先駆けて日本公開となる本作は監督自ら再編集したディレクターズ・カット版である。(story、写真とも映画情報サイトより転載)
この映画は、フローベールの小説「ボヴァリー夫人」とは別のものだった。
一度監督の中でこの小説が飲み込まれ、破壊され、再構築された、そんな感じだった。
冒頭から既に漂う背徳と退廃の匂い。
終始聞こえる蠅の羽音にも空気の澱みを感じ、私はベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』を想起していた。そういえば、あそこにも“堕ちていく”姿があった。
「祈り、救いたまえ」とは映画の原題。
オープニングとエンディングの曲は荘厳で、それは監督の“エマへの祈り”に他ならないと感じられた。このオープニングの醸す世界から既に、すっかりこの作品に魅入らされてしまっていた私だった。
謂わばこの作品は、最後のエマの埋葬シーンの為に紡がれたものかもしれない。
それほど、それまでの狂気をも漂わせた生きたエマとは打って変わって、幾重もの棺に納められた彼女はただ“横たわる静かな魂”だったのだ。まるで慟哭から解放されてやっと初めて安らぎを得たかのように。
夫シャルルの一挙手一投足が哀しいまでにひどく滑稽なことに加え、至るところに見える誇張を伴うグロテスクな描写や、エマの陶酔しきった呟きと嘆きの絶叫など、全てが象徴的で観念的な世界を創り出していたように思う。
エマの容姿は標準の美意識からは大きく逸脱したもので、夫シャルルの身体も醜悪ささえ感じさせるものだった。しかしそれだけにそれらの描写は生々しく、生身の「肉」を感じさせた。
全ての人物がそれぞれの描き方に於いて“醜い部分”を滲ませ、そしてそれぞれの堕ち方で破綻していく描写に、恐ろしさを感じると共に何故か魅せられてしまう私だった。それほどまでに強烈な力を持った描写のされ方だった。
「祈り、救いたまえ」
エマへの祈りが聞こえる。
圧倒され、打ちのめされ、顔を背け、それでも再び魅せられていく…ただただ言葉を失う128分だった。
さて、久々に我が家の猫くん登場。
陽の射す方を見つめて何を考えている?
明日がささやかでも幸せであれよかし。
Kママ、一日も早いご復帰を心から願っています。