2012年05月19日

腑抜ども、悲しみの愛を見せろ(本)


 ブログの更新を3週間も怠ってしまいました。
日々の雑務に忙殺され、なんて書くと言い訳にしかなりませんね。
しかも久々の更新は映画じゃなくて小説のお話だし。でもこの小説は映画化されましたよね。未見ですが、監督は吉田大八氏なので過去に氏の監督作品『パーマネント野ばら』にノックアウトされてしまった私としては是非いつか観ておきたい作品としてインプットされています。

そして今日は午後から映画を観に行く予定です。
鑑賞後は早々にレヴューをアップしたいと思います。
 

                       悲しみの愛を.bmp

さて、その前にこの本、『腑抜ども、悲しみの愛を見せろ』(本谷有希子著 講談社文庫)のことを少し。 通勤電車の車中で昨日から読み始めた小説です。

映画公開時に「家族の愛憎?を題材にした“黒い笑い”的物語」という漠然とした情報は得ていましたが、それ以外には予備知識無しでした。
それ故にでしょうか、1ページ目からぐいぐい引き込まれていきます、読ませます。今のところは展開の予測が全く不可能です。
度肝を抜くような、ひどく挑発的なこのタイトル。そもそも「悲しみの愛」って何なのでしょう。
心をざわざわとさせる不穏な空気に満ちているオープニング(冒頭から姉・澄伽の登場まで)ですが、その後に続く正体不明な展開の中でいったいどんな愛が姿を見せてくるのでしょうか。興じましょう。

                       プレミアム  .bmp

雑務に忙殺され、なんて書いておきながらこういう時間だけはちゃっかり確保。
ビールが一段と美味しく感じる季節になってきましたね。

posted by ぺろんぱ at 06:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2012年05月01日

ル・アーヴルの靴みがき


 先日鑑賞の第二弾、アキ・カウリスマキ監督の最新作『ル・アーヴルの靴みがき』を梅田ガーデンシネマで鑑賞。
カウリスマキ新作ということで、シアター場内が暗転したら妙にワクワクドキドキしてしまいました。

story
  北フランスの港町、ル・アーヴル。パリで自由奔放な生活を送っていたマルセル・マルクス(アンドレ・ウィルムス)は、いまはル・アーヴルの駅前で靴をみがくことを生業としている。家で彼の帰りを待つ献身的な妻・アルレッティ(カティ・オウティネン)愛犬・ライカ(ライカ)。街で暮らす隣近所の人々の支えも、彼にとってはなくてはならない大切な宝物だ。そんなある日、港にアフリカからの不法移民が乗ったコンテナが漂着。マルセルは、警察の検挙をすり抜けたひとりの少年・イドリッサ(ブロンダン・ミゲル)と偶然の出会うのだが――。
                     
                      ル・アーブルの.jpg
                      ※story、写真とも映画情報サイトよりの転載です。


今までじんわりと胸が熱くなることはあったけれど、あっという間に涙腺が緩んだのを感じたのなんてカウリスマキ作品では珍しいかも。それは号泣というのでは決してなく、もっと柔らかな、それでいて“突然に”もたらされたものなのでした。
ラストの哀しい成り行きに「ああ、やっぱりカウリスマキ流の美学で幕を閉じるんだなぁ」って(それはそれで深く納得して)思った次の瞬間、パッと目が醒めるような奇跡を目の当たりにして、温かい涙で睫毛が濡れたのでした。
アキ作品はやるせない不条理感を残す作品が多かっただけに、この展開がちょっと意外でした。
でも“悲し顔”のカティ・オウティネンが見せる晴れやかな笑顔と、少女のように可憐なワンピースはとても素敵でした。(満足)

常にアルコールと仲良しのマルセル。
彼は『ラヴィ・ド・ボエーム』で登場した売れない小説家マルセルの成れの果てなのか?? 
自己の敷く根本的なコトの善悪の掟には至極生真面目で、且つお茶目な彼だけれど(知り合いのパン屋からバケットを失敬するのは挨拶代わりのようだった)、彼を取り囲む近隣の住人達が、本当に“人の情け”といえるものを感じさせて味わい深いのです。
なんて言うのかな・・・潔いっていうのでしょうか? 少しも躊躇うことなくマルセルの窮地にさっと手を差し伸べる姿が、私から見ると本当にカッコよかったのですよね、これが。

近隣住人の一人は、私の大好きなアキ作品『ラヴィ・ド・ボエーム』でヒロイン・ミミを演じた女性(イヴリヌ・ディディ)で、彼女の登場は凄く嬉しかったです。あの作品では奇跡は起こらなかったのですけれどね。
エリナ・サロは相変わらず“男前な”女性、きっちり筋を通した硬派な女性を演じていて素敵です。ジャン=ピエール・レオーの役柄にもう一展開ほしかったのは、彼がああいう役柄だけで終わるのがちょっと勿体無かったから。でもああいう超脇役ながら摩訶不思議な存在感を残せる彼って凄いのかもしれません。
ジャン=ピエール・ダルッサンは“いい役柄”ですが、最初から「この人はこちら側に立ってくれる」という確信的思いが張り付いていましたね。あの『サン・ジャックへの道』でのアルコール依存症クロード役なのですから。(^_^)
名犬ライカは監督と暮らすワンちゃんの何世代目か・・・いろんなアキ作品に登場しているライカ犬の祖先犬たちですが、本作のライカ君(ライカちゃん??)はかなりの演技力で見せてくれています。
嗚呼、、、それにしてもマッティ・ペロンパーはもう其処にはいないですよね。(感慨深く独り言ちる)

世の中には辛く悲しいコトや面白くないこと、そんなのがたくさんあるけれど、本当に自分が大切にしたい感情に正直に生き、それを大切にしているなら、きっと明るい明日が来るんだろうなぁって、そう思える映画です。
やっぱり駄目なんやと思う人生が奇跡的に救われる、、、でもそれはもしかしたら奇跡ではないのかもしれません。居丈高に語られていないだけで、それはマルセルの真っ直ぐな善意の賜物に相違ないのだと監督はいっているのかもしれませんね。


                       ウチ呑みワイン.bmp

マルセルはワインをガブガブ。
私も今宵はワインをガブガブ。
ちょっと酔いたくてビールと日本酒をそれぞれ呑んでからのワインスタートです。拙宅のオブジェと共にカシャリと一枚。


posted by ぺろんぱ at 21:52| Comment(4) | TrackBack(2) | 日記

2012年04月29日

少年と自転車

  Theater観賞復活なるか!?
取り敢えず、今回は欲張って一気に2本を鑑賞しました。

アキ・カウリスマキ監督最新作『ル・アーヴルの靴みがき』と、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の『少年と自転車』です。両作とも公開を待ち望んでいた作品でした。
先ずは観賞時系列で『少年と自転車』のレヴュ―から。アキの最新作はまた後日改めて記させて頂きます。

『少年と自転車』(ダルデンヌ兄弟監督)を シネリーブル神戸にて観賞。

私のダルデンヌ兄弟監督歴はまだ浅くて、3年前の公開作『ロルナの祈り』で初めてその世界に触れたのでした。以後、DVDで過去作『ある子供』も観賞。
本作も、胸痛む現実から幕を開けます。

story
  父親から育児放棄された孤独な少年が、ひとりの女性との出会いから自立していき、女性もまた少年を守ることで母性を獲得していく姿を描く。
自分を児童相談所に預けた父親(ジェレミー・レニエ)を見つけ出し、一緒に暮らすことを夢見る少年シリル(トマ・ドレ)は、ある日、美容師の女性サマンサ(セシル・ドゥ・フランス)と知り合う。週末をサマンサの家で過ごすようになったシリルは、自転車で街を駆けまわり、ようやく父親を見つけ出すのだが…。

                       少年と 1.bmp              
                      ※story、画像とも映画情報サイトよりの転載です。


 少年と自転車。
この自転車こそが少年シリルにとって唯一“常に傍に存在”し“裏切らぬ存在”だったのですね。
子どもというものは、愛の対象がはっきりしていて至極直情的なものなのですね。捨てられた父親への思慕は、常に「一刻も早くパパに会いたい」というシリルの(他への一切の配慮を欠いた)必死さが物語っていたし、悪事と分かっていても犯罪に加担したのは、自分に目をかけてくれた街のチンピラの望みを叶えたかったから。

そんなシリルが、赤の他人でありながら身をなげうって自分を愛し守ってくれるサマンサと出逢い、やがては彼女が思慕の対象となってゆきます。
陳腐に聞こえるかもしれませんが、愛は人を変えるのだなぁ…って。
最後のあのシーンでシリルは「一刻も早くサマンサのもとに戻りたい」との思いだけに突き動かされていたはず。自分の身体のことも事件の相手のこともとにかくどうどもよかったのだ、と。
自転車という「モノ」ではなくサマンサという「人間」がシリルを裏切らぬ存在になったことに、安堵すると共に人が時として放つものすごく大きな力を感じずにはいられませんでした。 サマンサという一人の女性の、誰かを守り抜こうとする揺るぎない愛の力を。

                       少年と 2.bmp

シリルとサマンサ、そして自転車が一つの繋がりとなる場面があります。
終盤で二人が自転車を駆って水辺をゆっくりと走るシーンは、降り注ぐ陽光と共に二人の幸福感が正に“光る”シーンでした。
この幸せのシーンのあとに一転して不穏なある出来事を挿入し、シリルが背負っている現実を浮かび上がらせるのですが、しかしそうであるからこそ“かけがえのない大切なもの”としてそこに存在するシリルの「思い」に迫ったラストは、静かに胸を打つものがありました。
誰かと繋がっているという思いの、なんと揺るぎない力をもたらすことか。

前作『ロルナの祈り』で「人は変わることができるのか」を見極めてみたいと述べておられたダルデンヌ兄弟でしたが、本作では「微かな希望」だと信じる(信じたい)ラストに、「人は変わることができるのだ」という答えが見つけられた気がしました。


                      寸 焼酎ロック.bmp

  仕事も生活もちょっとした転機を迎えたこの4月でした。新たな一歩を。
私の乾杯好きはこれからも変わらずエンドレスで。堂島の某居酒屋さんでの芋焼酎ほぼロック(ちょい水)です。
posted by ぺろんぱ at 19:51| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2012年04月15日

ナイト・オン・ザ・プラネット(久々の再鑑賞)


   「処前観シリーズ」の第12弾は『ナイト・オン・ザ・プラネット』(ジム・ジャームッシュ監督 1992年作品)です。

5つの都市それぞれで、深夜のタクシードライバーと乗客たちとの人間模様が綴られたオムニバス映画です。
 
                      ナイト・・・.bmp
                           ※画像は映画情報サイトよりの転載です。


ジャームッシュ監督の、一種独特のだらだらと投げやりなような?どうでもいいような?日常の一コマ一コマが、タクシーの中という極めて限定された小さな空間の中で展開していきます。

ドラマ性が、あるようで無い。
実際交わされる会話や起こった出来事はあり得ないような強烈さもあるのですが、それぞれのストーリーは起承転結的な完結をみません。けれど妙なリアル感がそこにあるのは、やはり人間の持つ、自分でも気がつかない“可笑しみ”みたいなものがベースにあるからでしょうか。

メッセージ性やテーマは皆無とよく評される本作ですが、私は結構、教訓めいたものやそこにあるテーマみたいなものを薄っすらと感じないではないのですけれど。うっすらと、呟きのようなトーンで。

例えば第一話<ロサンゼルス 19:07>では
「自分にとって価値あることが人にとっても価値あるものとは限らない」、とか。
第二話<ニューヨーク 22:07>では、
「家族を持つ者と、持たない者。孤独は緩やかな死への扉かもしれない」、とか。
第三話<パリ 4:07>では
「大抵の人間は目が見えるから“感じる”ことができない、そしてただ右往左往するだけなのだね」、とか。
第四話<ローマ 4:07>では
「偶然の出会いがもたらす不幸もある」、とか。
第五話<ヘルシンキ 5:07>では
「幸と不幸は他者と比べるものなんかじゃない」、とか。

 この第五話の中では思いっきり他社との不幸比べが描かれているので、いわば“逆説的に”ね。
 そして「それぞれの不幸を背負った人間たちにも夜明けは来るよ」っていうようなこととか。
 事実、この第五話のパートで映画は夜明けを迎えるのですよね。

あー、こうして書いていくと、全話に「幸も不幸も定義なんてない」ってことを感じますね。ある人がある人を不幸で可哀想って思っていても、当の本人はそれなりに幸せだと思っていたり、自分は不幸極まりないって思っていても自分が気付かないところでかけがえのない幸せを持っていたり。

ユーモラスな展開でもあるのに、車窓からのそれぞれの夜の街は「ここではないどこか」を感じさせ、寂しげでちょっと切なくもなります。


<L.A>のウィノナ・ライダー、<パリ>のベアトリス・ダルがなかなかイイです。
<ヘルシンキ>では、マッティ・ペロンパーやカリ・ヴァーナネン、サカリ・クオスマネンなどのカウリスマキ組が出ててとても嬉しいです。
エンディングのトム・ウェイツの歌も聴かせる、地味に、こそっと、味わいのある作品だと思います。


                       サンボア ジン ハーフ.bmp

誰にも等しく「ナイト・オン・ザ・プラネット」はやって来ますね。
先日の私の「ナイト」は久々の堂島サンボアでのジンでした。




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2012年04月09日

マイ・レフトフット (久々の再鑑賞)


「処前観シリーズ」の第11弾は『マイ・レフトフット』(ジム・シェリダン監督 1989年作品)です。

重度の脳性小児麻痺に冒されたアイルランド人画家であり小説家であるクリスティ・ブラウンの半生を描いた実話に基づくドラマですが、主演ダニエル・デイ・ルイスの、まさに迫真の演技が印象深い作品です。


                         マイ 1.bmp                       
※画像は映画情報サイトよりの転載です。



 本作を観返すのは本当に久方ぶりでしたが、ラストの“シャンパンの泡とともに湧き上がる解放感”だけはしっかり心に残っていて、今回もやはりその爽快感を味わうことができました。

やがて結ばれることになる看護師メアリーとの出会いには柔らかい優しさの空気に満ちて、何かしらの幸せの予感を感じます。
彼女がクリスティ(ダニエル・デイ・ルイス)の自叙伝を読みながら「魅力的よ。感傷的でもないしね。」とその書物を評したのは、そのままクリスティという人間そのものにも当てはまることだったといえます。クリスティはその溢れ出る表現欲と並々ならぬ芸術性によって、自らの身体的障害を悲嘆し感傷的な日々に浸る段階を遥かに超えるステージに立っていたのですから。

しかしそうなるまでには当然のことながら彼自身の壮絶な闘いがあり、また、そのような精神的高みに立てていても、彼には「ある一点」に於いて自らの身体の他者との差異に悶え苦しむ時が絶えずあったのです。

愛と性を両立させられない自身の身を死を以て葬ろうとしたかつてのクリスティ。
壮絶で、感情の荒れるままに周囲に毒づく彼はあまりにも痛々しく、目を背けたくなるほどの後味の悪ささえ残りました。
求めても得られない「愛する女性との性的結合」という問題をクリスティの内面を“美化しない視点”でありのままに描ききったことで、彼の“一人の人間”としての未完成な姿が浮き彫りになり、作品に骨太な見応え感を感じられたように思いました。


落涙を禁じ得ないのは、やはりあの、床に左足を使って書いた「MOTHER」のシーンでしょう。
この子にミサなんて無理だという神父に抵抗して、母親(ブレンダ・フウリッカー)がクリスティを連れ立った夜の教会で「これが希望の灯よ」とクリスティに小さな灯を差し出すシーンにも胸が熱くなります。

母の愛はすごい。
熱く、大きく、深く、揺るぎない。
不器用で荒削りで、母親とは全く違った形ではあったけれど、確執があった父親にもクリスティを愛する心が芽生えます。母親、父親、姉弟たち、それぞれの愛に囲まれてこそクリスティの芸術への開花があったのだと思います。

そしてラストシーンの爽快感は、やっぱりイイのですよね。



                       山長 にごり.bmp

 ああ、こんな時にどこかでのシャンパンの画を残していたら良かったのに。
熱燗に走っていた日々が多かったです。
でも、微発泡の残る日本酒の濁りを先月山長さんでいただきましたのでその時の画を。





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2012年04月05日

魔王 そして、へらへらぼっちゃん


  一昨日の嵐は凄かったですね。
会社から所用で外出して駅ビルとかアバンザビルとかを歩き、ドーチカから地上に上ってびっくり。外出時に一旦凪いでいた空に暗雲たち込め、暴風で木々の枝も折れてました。停車中の無人車も風に煽られ動き出してきて・・・。いつもは穏やかな会社までの数十メートルで、初めて生命の危険を感じました。がく〜(落胆した顔)

昨日の大阪は一転して好天。空の青さが嬉しかったです。

今日は本のお話。

通勤時に今読んでいるのは『魔王』(伊坂幸太郎著、講談社文庫)です。
まだ読み始めて20ページほどですが、相変わらずこの作家さんの“冒頭部の掴み感”は凄いですね。「魔王」というタイトルなのに何処からか漂う清々しさの気配もあります。本作も面白く読めそう。

                      この2冊.bmp

朝の半身浴時と通勤電車内と二本立ての読書タイムの私ですが、半身浴時は(本がボロボロになってしまうので)再読モノが多く、ジャンルもその都度バラバラです。つい先日までは、半身浴時に太宰治の『人間失格』を読み、家を出て通勤電車内では友人に借りた宮沢賢治の童話集を読むという、頭と心の切り替えに時間がかかりそうな取り合わせでした。それはそれで楽しかったですが。

『人間失格』を読んでてふと読みたくなったのが町田康。
人間の(決して清澄ではない)本質に迫るものとして、どっぷりとその暗部に浸かりきった描き方をするのと、ちょっと身をかわした感じの視点で描くのと、筆致は違えど両者は似ているものがあるのかもしれない・・・とふと感じたからだと思います。(「それは違う!」と町田康を愛する方々からは叱責を受けるかもしれませんね、まだ町田康歴浅いのでそこんところは大目に見て下さいね。^_^;)

町田康さんの小説は、読む者の“鞭打たれ感”みたいなのが凄いなぁと思います。小説は何冊か読みましたがエッセイは未だ読んだことがありません。何だか氏のエッセイを無性に読みたくなってJ書店で一冊購入して帰りました。
たくさん刊行されているようですが、あれこれ迷ってやっぱりエッセイ集の処女作『へらへらぼっちゃん』(講談社文庫)にしました。『正直じゃいけん』(ハルキ文庫)も面白そうでしたけど、それはまた今度。

二冊ともページを繰っていくのが楽しみです。

                      櫻正宗.bmp

さて、お邪魔させて頂いているブロガーさんのページで少し前に櫻正宗のことが話題になっていたので、私も先日お伺いした御影の某角打ちで櫻正宗の熱燗を所望させて頂きました。こちらのお店では常時6種類くらいの日本酒から好きな銘柄を燗酒にしてもらえます。道灌もありましたが、その日は櫻正宗モード。

そういえば夙川の桜もそろそろこの土日に見ごろを迎えるのかな。


posted by ぺろんぱ at 20:34| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月30日

恋する惑星 (久々の再鑑賞)


「処前観(処分する前にもう一回観ておこう)シリーズ」の第10弾は『恋する惑星』(ウォン・カーウァイ監督 1994年作品)です。

これは改めて「もう一回観ておこう」という気合を入れるまでもなく既に何度か観返している作品です。大好きだという人も多いでしょうね。
恋愛物語なのに衝撃的ともいえる作品。ウォン・カーウァイ監督の御名を広く知らしめた映画かと。

story
麻薬取引にかかわる金髪の女ディーラーと、恋人にふられ落ち込み気味の刑事モウとの不思議な出会い。そして、モウが立ち寄る飲食店の新入り店員フェイと、スチュワーデスの恋人にふられる警官との出会いとすれ違いという、平行線をたどる二組の男女を描いた物語。
                      ※story、下記の掲出画像とも、映画情報サイトよりの転載です。


      恋する.bmp惑星.bmp

  オープニングの異国的空気感が満載の音と映像は何度繰り返し観ても脳内の神経細胞を刺激します。物語導入への期待感を高めてくれます。
その時点で既にカーウァイ監督の術中に嵌まってしまってる感じがします。

犯罪の匂いが染みついた薄汚れた夜の香港の片隅で意外にも純な恋心が小さく芽吹いた第一部(金城武×ブリジット・リン)。二人が再び出会い芽吹いた恋を花咲かせることはおそらく「無い」と思われるのに、見えないほどに薄く細い糸の存在を感じる雨のラストシーンは淡く美しいです。
日中の喧騒と雑踏の香港で男女の恋心のウェーブが微妙にすれ違う第二部(トニー・レオン×フェイ・ウォン)では、再び出会った二人の恋がやがては一つになりそうな、微かな(しかし確たる)予感に包まれて終わります。

好きなのは第二部。
トニー・レオンが好きだから、というのもありますけれど、とにかくフェイ・ウォンがとってもキュートで魅力的なのです。
音楽もイイです。この映画を観て即、ママス&パパスの『夢のカリフォルニア』のCDを買いました。エンディングで流れるフェイが歌う『夢中人』も最高にチャーミングな曲です。
警官663(トニー・レオン)から念願のデートに誘われたフェイ(フェイ・ウォン)だったけれど、あそこでカリフォルニア行きを決めたのは彼に恋する想いが強かったからこそのことと何となく同性として解った気がしたものでした。それは年月を経て観返してみても同じ。今のこの年齢になっても「何となく解る」という想いに浸らせてくれるこの映画、すごいです。

第一部と第二部は別の物語ですが、同じ頃に同じ飲食店を軸に展開し、主演の男性二人はともに警官です。
第二部の警官663(トニー・レオン)と彼を振るスチュワーデス(チャウ・カーリン)が第一部にそれぞれ一瞬ちらっと登場しています。
躍動感に満ちてスタイリッシュに展開してゆく映像のなかにちょっと遊び心も感じられて心憎い。
あー、トニー・レオン様の白いランニングシャツと白いブリーフ姿は、初め戸惑いを覚えつつもそれはそれでなかなか素敵に見えます、はい。


同じ構想で撮られたといえる同監督の『天使の涙』は確か観に行ったはずなのに、何故か殆ど思い出せない。録画撮りもしていない。
それだけこっちの方が(自分には)断然面白かったということなのでしょうか、、、それにしても気になってきたのでいつかレンタルして観返してみたいです。

                    一芯 黒糖.bmp

  久々に黒糖焼酎のロック。 ごはんや一芯にて。

黒糖焼酎の濃いのはラム酒の香りを感じますね。





                      



posted by ぺろんぱ at 22:03| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月28日

靴をなくした天使 (久々の再鑑賞)



  「処前観(処分する前にもう一回観ておこう)シリーズ」の第9弾は『ヒーロー 靴をなくした天使』(スティーヴン・フリアーズ監督 1992年作品)です。
ここのところ劇場に行けていません。もう少ししたら・・・と思いつつ、昔の作品を先夜に再鑑賞です。

story
  炎上する飛行機事故の渦中に、偶然そこに居合わせた名も知れぬ人物が危機に瀕する乗客たちを救出して消えた。乗客の一人だったTVレポーターは、この謎の人物を希代の英雄として追跡しようとする。が、その人物はただのしがないコソ泥だった…。

                         靴をなくした天使.bmp
                   ※story、画像とも、映画情報サイトよりの転載です。


  ダスティン・ホフマンのシルエットって哀愁ありますね。
コミカルで一つ一つの動作がゼンマイ仕掛けの人形みたいに見える時があるのですけれど、本作でも、飛行機事故に居合わせてしまって不本意ながらも??乗客を助けることになってしまったバーニー(ダスティン)が事故現場で右往左往しているシルエットが、コミカルであると同時にすごく切ない感じがして。
かたや乗客を救ったのは自分だと名乗り出るホームレス男ジョン・ババーを演じたアンディ・ガルシアも、貧困の極みで薄汚れた格好なのに何処からともなくモテ男オーラが立ち上がっていたのは、それはそれで本作のプラス要素になっていたと思います。


「誰でもヒーローになれる。
 でも、誰でも、ヒーローである部分とそうでない部分を持っている。」


このジョンの台詞は的を射ていて、ヒーローである部分にスポットライトが当てられてしまったジョンは国民的英雄になり、そうでない部分しか他人に晒されなかったバーニーはただの情けないダメ人間という烙印を押されてしまいます。
しかしバーニーはスポットライトの当たらないところでジョンを救うことになるし、そうでなくとも、最愛の息子にとっては“たったひとりのヒーロー”であることに変わりはないのです。ジョンはジョンで、永遠に誰もが望む国民的ヒーローであり続ければいいのです。そうすることで多くの人間が実際に救われるのだから。
「どれもが真実」であり、また、言い換えればそれら全てが「一つの真実」なのではないでしょうか。

視聴率のためなら真実などどうでもいいとするマスコミの姿勢が本作では痛烈に皮肉られていますが、人々が望み憧れ描くヒーロー像をマスコミが望み通りに提供しているのだとしたら、本当に皮肉られているのは我々人間の他者によって救われたいと願う本質の方なのかもしれません。


ジョン・キューザックのお姉さんであるジョーン・キューザックもご出演で嬉しいところですが、TVレポーター・ゲイルを演じたジーナ・デイヴィスもなかなか素敵です。
終盤の、彼女とバーニーの密室での会話がイイですね〜、シンプルな会話なのですけれどね。
ゲイルが仕事へのプロ意識を持つ女性であったこと、真実を見落とさない好もしい女性であったことに安堵するとともに、バーニーがやっと言えた一言がとにかく嬉しかったです。ラストの動物園のシーンは敢えて描かず、あそこで The End にしてほしかったかな、というのが正直な感想でもあります。

いずれにせよ、ダスティン・ホフマンの魅力全開の一作であることは違いありません。


                        ロイヤルビター.bmp

  ビターな味わいのヒューマンコメディっていうところでしょうか、本作。
こちらはいつだったか写真に撮っておいた期間限定発売だった Beer <ロイヤルビター> です。 仕事帰りのコンビニで見つけて買ったものでしたが、もうとっくに販売期間終わってるやん! 今更ながらの掲載で申し訳ありません。 そしてお味は・・・ビールの苦味は大好きですが、ただ単に苦味足したらええっちゅうもんでもないんとちゃいますか??的な感想だったと記憶しています。 


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2012年03月18日

秋菊の物語(久々の再鑑賞)


 「処前観(処分する前にもう一回観ておこう)シリーズ」の第8弾は『秋菊の物語』(チャン・イーモウ監督 1992年作品)です。

中国北部の農村。ささいなトラブルから夫の股間を村長に蹴られた身重の妻・秋菊(コン・リー)が、村長に非を認めさせようと彼を訴えることに奔走する姿を描いた物語です。 
               
                     秋菊.bmp       
                         ※画像は映画情報サイトよりの転載です。            
 
 何がイイと言って、主演のコン・リーが本当にイイです、本作。

コン・リーは1965年生まれとされているので本作は27歳の時の作品ということになりましょうか。
アンニュイな雰囲気が魅力的で、実力派ながらフェロモン系女優という位置付けも確かなコン・リーですが、本作での彼女はそれはもう完璧に、農村に嫁いだ生真面目であか抜けない田舎の女性になりきっています。
化粧っけのない顔は終始仏頂面で、身重なのでお腹回りもでっぷりとして着ている服も歩き方も野暮ったい。それでいて芯は強く、頑固でこうと決めたらどこまでも突っ走る、そんな秋菊。
一つ一つの表情や台詞の言い回しなんかが、もう「女優コン・リー」じゃなくて完全に「農家の逞しい嫁」になっているわけですが、言い換えればそういうところこそが「女優コン・リー」といえるのでしょうね。
中国奥地の農村が舞台で、出演者は地元の素人さんも多かったように見受けられますが、それでもここまで見応えある映画になったのはやはりコン・リーの存在の賜物と感じました。        

 秋菊はどこまでも突っ走ります。
先ずは軍の役場へ、次は県の役所へ、それが駄目なら市の役所へ。それでも結果が不本意で遂には裁判へ、と。 義妹を携え、なんとかお金を工面し大きなお腹を抱えて、右も左も分からない都会では白タクまがいの男にぼったくられながら。秋菊の筋を曲げない女の意地に、生命力に満ちた強さを感じます。

県や市の役所へ掛け合いに出向いた時。
都会の街を行く人たちの姿と秋菊と義妹の二人のいかにも田舎者的な姿を繰り返し交互に映し、途方に暮れる二人の様子を浮き彫りにする演出が面白いです。
観返す度に「好きだなぁ」って思えるシーンも其処にあります。運賃をぼったくられた男を見つけて追いかけていった義妹を心配した秋菊が、戻ってきた義妹を責めながらも無事でよかったと涙を流すところです。切なくて、でもあったかいシーンで、秋菊の深い母性とひたむきさを感じるのです。
そもそも、秋菊は村長が一言謝ってくれたらそれでよかったのですよね。理由はあったにせよ、やっぱり村長がしたことは暴力だったわけですから。

結局ある出来事があって秋菊と村長のわだかまりは溶けるのですが、その後にまた皮肉な展開が待っています。
仏頂面だった秋菊に満面の笑みが戻ったと思ったら今度は泣きだしそうな顔の秋菊になってしまう・・・人生って思うようにいかないですね

ささやかなトラブルを巡って展開する人間模様が、辛辣なところもありますが全体的には実にほのぼのとしていて牧歌的です。あの後どうなるんだろうって案じながらも、きっと最後はまあるく治まるんじゃないかなーと思うのですよね。


もう一つ、この映画で印象的なのが「湯気」です。
凍てつくような冬の時期が舞台で村人たちは食事というと熱い麺をすするのですが、とにかくそれが熱そうで盛んに湯気が立ちあがっているのです。寒いので吐く息も白いのだけれど、それ以上に食事の度にもうもうと立ち上がる湯気がスクリーンを席巻します。それに、秋菊が無心に食べてる姿が何とも微笑ましくてとにかく美味しそうで。お腹すいてるときにこれを観たらきっと熱いラーメンとか食べたくなると思います。

  
 ラーメンじゃないけど先日はとっても美味しいパスタとお料理を戴きましたよ。
それとシャンパンとワインも。友人Iさんのお店にて。お料理も藝術なんだとつくづく思います。

     至福のシャンパン.bmp  至福のサラダ.bmp  至福のワイン.bmp


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2012年03月14日

晴天の迷いクジラ 読了


この時期に、再び津波の危険。
今夜仕事からの帰宅後、NHKニュースで知る。
取り敢えず惨事に至っていない模様に少し安堵の思い。
どうかもうこれ以上・・・と祈らずにいられない。


  3月5日のブログで記していた『晴天の迷いクジラ』を昨日読了しました。
少しばかりの感想を述べさせて頂こうと思います。

読後あらためて、タイトルの「晴天の」という言葉が心に染みました。
もやもやの世界にさっと柔らかな陽が差し込んできたような感覚に包まれて本を閉じました。

八方塞がりで自分の生きる道が見えなくなって、そこに行きつくしかないように思われた自殺寸前の三人の男女。
三者それぞれの「日々」を綴った第一章から三章までは、息苦しく痛々しくもあります。
けれど三者が出会ってクジラを見にゆく第四章(最終章)「迷いクジラのいる夕景」ではトーンががらりと変わります。いや、筆致は同じなのかも知れません、読む私の受け取り方が変わっただけなのかもしれません。でも、それほどに「誰かが傍にいるということ」がもたらしてくれる不思議な力を感じたのです。

特に第四章で登場する老女の放つ幾つかの言葉が静かに心を打ちます。
頑張らないでいいのだと、生きることに意義付けなどしなくていいのだと、自己の為す役割など考えなくていいのだと、そう導いてくれた気がしました。


クジラはただ生きている。
そして、意図したわけではなくたまたま入り江に迷い込んでしまった、らしい。
入り江を脱した後も、生き残れる可能性は半々だという。

可能性は半々。三人のこれからも、それは同じかもしれません。事実、彼らを取り巻く状況は何ら変わりないのですから。
それでも、自らの命を絶つという“座礁”の一歩手前で、それを免れた彼らの明日には昨日までと違った陽が差しているように思えるのです。

そもそも「生きる道」って何なのでしょう。
道なんて見えてなくても、その先をとにかく歩いていってみろ、そんな声も聞こえた気がしました。


 先日の「いただいた赤ワインでゆっくりと独り乾杯」の画、です。
ふくよかな味わいが美味しいです。

                     モンタルチーノ.bmp



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