2023年07月30日

658q、陽子の旅 (シネ・リーブル神戸にて)


28日㈮ から公開の映画『 658q、陽子の旅 』( 熊切和嘉監督 )をシネリーブル神戸で鑑賞してきました。
久々の劇場鑑賞、久々のリブ神、嬉しくて近日公開の映画フライヤーをこれでもかと集めていたら結構な量になってしまいました。(あとでゆっくりお酒を飲みながら読むのが楽しみで…)
想像していた以上に ある種の痛み を伴うものでしたが、観に行って本当によかったと思える一作でした。

陽子の旅 1 - コピー.jpg

<story>
東京で孤独な引きこもり生活を送る青森県弘前市出身の陽子(菊地凛子)は、42歳独身、人生を諦めて過ごしてきた就職氷河期世代のフリーター。ある日、かつて夢への挑戦を反対されて20年以上断絶していた父が突然亡くなったとの知らせを受ける。従兄の茂(竹原ピストル)とその家族に連れられ、渋々車で弘前へ向かうが、その途中、サービスエリアでトラブルを起こした子どもに気を取られた茂一家に置き去りにされてしまう。弘前行きを逡巡する陽子だったが、所持金もないため、やむなくヒッチハイクで北上することに。(※映画情報サイトよりの転載です)

※結末に触れる記述をしています。

 東京から青森へのヒッチハイク。
ヒッチハイクなんてやったことない私ですが、それが容易な旅ではないことは想像できます。
コミュニケーション障害と目される陽子にとって(否、たとえそうでなくても)見知らぬ人間の車での道行きは少なからぬ心の苦痛を伴うものであり、実際には身体の痛みさえもたらすことになります。
ヒッチハイクをする人間にも彼らを乗せる側の人間にも(そして乗車を拒む人間にも)其々の事情があり生きてきた背景があり、、、序盤に出会ったもう一人の若きヒッチハイカーの女の子との会話は、後の陽子の変化を思うと大切なことを投げかけていたように思えます。

女性が一人でヒッチハイクをするという行為が「なんとかなるだろう」という陽子の姿と共に描かれ始める序盤には実は何となく釈然としない思いがありました。そんな中、三番目に拾ってくれた車の老夫婦の夫が放った言葉が私の心を激しく打ちました。
「あんたもこれから気をつけなくちゃなぁ。見ず知らずの人の車に乗るなんて、危なくてしょうがねぇだろう?」という言葉。
これなんだ、と思いました。これこそが 誰かが語って然るべき事だったんだ と。
身を案じる思いと同時に、他者と(しかも見ず知らずの他者と)深く関わることになるヒッチハイクという行為の意味を陽子に気付かせてくれたように思えました。そこに陽子は 親の姿 を重ねたのだと思いました。老人のあの言葉は重かったと思います、本当に。

陽子の旅 2 - コピー.jpg

※陽子。 映画のサイトより転載させて頂きました。


では何故そんな旅をせねばならないのか。
老人の言葉を聞いた瞬間、陽子は激しく自己に問うたと思います。奇しくも陽子自身が、序盤に出会ったもう一人のヒッチハイカーの子に同じことを問うていました、どうしてそんな旅をしているの?と。
その時その子は「分からないでしょ、言っても」と答えていました(それは本当にその通りで、個人の身の上は他人には容易には分かりえないことです)が、あの子にもそして陽子にも言葉にして吐き出せる大きな何かが心の中にあったことは想像に難くない、言葉にできなかっただけで。

ヒッチハイクの過程で様々な人と出会い自己の来し方と向き合う中でやっとのことで幾許かの言葉を紡ぎ出せた陽子。彼女のその変化こそが更に新たな出会いを呼び青森の目的地まで辿り着かせてくれたということに、そして辿り着いた地で陽子の感情が堰を切ったように溢れ出るシーンに、私も共に泣きました。

東京から青森への、表情を少しづつ変えてゆく冬の景色もまた良いものでした。基本、ロードムービーはやはり好きでイイものです。
荒れ狂う寒地の大海原を前に座して佇む陽子、彼女が再び立ち上がり歩き出せたことを本当に良かったと思います。

試で試む - コピー.jpg

 かなり久々に立ち寄った 兵庫県の地酒を提供してくれる有料試飲のお店<試>にて。
「 試みる = どんな結果になるか分からないがとにかくやってみる 」というのは、よくよく考えてみると怖くもある、ヒッチハイクでないにしても陽子のように何らかの痛みを伴うものであれば尚更に。どこまで可能なんだろう、今の年齢の私には。


posted by ぺろんぱ at 19:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月16日

最近の思いと、『 クオーレ 』


  昨日15日(土)の朝、NHKの天気予報で6時台、7時台と二度、「明日 日曜日は太陽がギラギラ照りつける一日になるでしょう」と言っていたのを聞いていたせいか、昨日は近藤真彦さんの「 ギンギラギンにさりげなく 」が脳内ヘヴィロテでした。 なんでこの曲が?って思ってましたが気象予報士さんの言葉力やったんですね。

モクレン - コピー.jpg

ギンギラ太陽を気にしていたのは今日の朝に実家の町内で奉仕清掃作業があって泊りで実家に帰ったいたためでしょうか。年に5度あるこの地域活動に、実家にはもう誰も住んではいないけれど定期的に帰っている身として毎回参加させてもらっています。
何気ない日常の会話が流れる中で(時に話に加わることも)、草を引いたり公民館の窓拭きをしたりしているのは不思議と癒しにもなるのです。
実家に帰るのは施設で看てもらっている母の面会もあります。
コロナが5類に移行して厳しかった面会制限が少しだけ緩和されたことは過日(5/28付)拙ブログで書きましたが、文字にするとほんの少しの緩和でも それがもたらせてくれる‘決して小さくはないこと’を今は実感し始めています。母の状況が良くなっているわけでは決してないのですけれどね。

 映画 映画BSで幾作品かを観ました。
キーラ・ナイトレイとマーク・ラファロの『 はじまりのうた 』(ジョン・カーニー監督)はレヴューを途中まで書いていたのですが結局そのままになって挙げず仕舞い。マーク・ラファロといえば今年11月公開予定の映画『 哀れなるものたち 』(ヨルゴス・ランティモス監督、主演はエマ・ストーン)が興味深いところです。

橋を - コピー.jpg  クオーレ - コピー.jpg

 本の方は、あれから友人との会話に登場して興味を抱いた『 橋を渡る 』(吉田修一著)を図書館で借りて読み(第1〜3章はもやもやしつつ活字を追っていましたが、いきなりSF的展開を見せた最終章には驚くと共に微かな希望の光が見えて、この最終章こそが私は好きだなと思えた)、今は『 クオーレ 』(デ・アミーチス著)のページを繰っています。
『 クオーレ 』はアニメになった「母をたずねて三千里」の原作が小さく収められている一冊です。
最近「母を…」のストーリーに触れる機会があって、どうしても原作を読んでみたくなったのでした。アニメはかなり長編の世界ですが原作は60頁足らずのとても短い作品です。けれどそんな中にも少年マルコの心情が丁寧に、時に切なく時に激しく描かれていて、予想していた以上に読ませてくれるものでした。
「母を…」の原作はほんの一部で、『 クオーレ 』はそれ以外に多くの「お話」が収められている約470頁にわたる長い作品です。まだ途中ですが優しい気持ちにさせてくれそうな一冊です。

 18日(火)には近畿も梅雨明けするとか。
大雨、そして酷暑、それだけでも十二分に生きづらいこの地球。 皆さん、ココロもカラダもどうぞ大切に。



posted by ぺろんぱ at 19:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記