2006年08月08日

父と暮らせば …「広島の日」に

 先の日曜は広島の「原爆の日」だった。そして明日は長崎の。
だからと合わせたわけではなく、日曜、以前録画録りしていた『父と暮らせば』(黒木和雄監督)を観る。
          父と.jpg  「父と暮らせば」

story
 人類史上初の原爆が投下されてから3年後の広島。
図書館に勤める美津江(宮沢りえ)は、愛する者たちを一瞬の閃光で失い、自分が生き残ったことへの負い目に苦しみながら息を殺すようにひっそりと暮らしている。
そんな彼女の前にある日ひとりの青年・木下(浅野忠信)があらわれた。原爆の資料集めに情熱を注ぐその青年に好意を示され、美津江も一目で彼に惹かれていく。
しかし、美津江は「うちは幸せになってはいけんのじゃ。」と自分の恋心を押さえつけ、黙殺しようとする。そんな時、原爆で死んだ父の竹造(原田芳雄)が亡霊となって現れる。竹造は自ら“美津江の恋の応援団長”を名乗り、何とか娘の心を開かせようとするが・・・。
(映画・DVD情報より)


 映画の殆どが美津江と父・竹造の会話で紡がれており、舞台も二人の家が中心で、お芝居を観ているような感覚になったけれど、さもありなん、これは井上ひさし原作の「戯曲」を映画化したものだった。
美津江の一人語りのシーンや、竹造が昔話の一寸法師の芝居を通して被爆の酷さを語るシーンなど、“舞台劇”としての良さをそのまま生かして創られているところが興味深かった。

 「反戦」と声高にシュプレヒコールをあげるのでなく、全編を悲壮感で覆ってしまうわけでもなく、日常のひとコマひとコマと、父娘の軽妙な会話の応酬(特に広島弁の醸す雰囲気は心地よい)でもって、実はその陰に潜む「戦争の酷さ」というのが語られている。

メーキング映像の中でも監督は「戦場は異常空間。ドンパチの中で観客は勇気や度胸ばかり観てしまう。戦場の阿鼻叫喚じゃなく、お茶の間を描いて戦争の怖さを感じてもらいたかった。」と語っておられる。
            父と.jpg 映画1シーン  
          
多くの人々の“死”がある中で、自分ひとりが幸せになってはいけないという美津江の思いに、「それだからこそ前向きに幸せに生きなければいけないのじゃないか」という疑問も抱いてしまうが、その疑問は、“父・竹造の死に関わる出来事”が美津江の口から徐々に語られていくことによって払拭された。

原爆で大火傷を負い、瓦礫の下敷きになって身動きの取れなくなった父を死に物狂いで助けようとした美津江だったが、戦火の迫る中、“結果的には”父を残して逃げるしかなかったという事。
何よりも娘に「自分を置いて逃げろ」と強く命じたのは父・竹造自身であったということ。

 戦争の酷さを伝えると同時に、これは父娘の絆の物語だ。
娘は父を死なせた思いから幸せを遠ざけ、父はそんな娘の心を掬い上げ何とか陽のあたるところに出してやろうと必死になる。
娘が父を思い、父が娘を思う。このシンプルな構図が美しい
そして、死んでいる身故、実際に傍らにいてずっと娘を見守ることが出来ない竹造の無念さが悲しくてたまらない
その悲しさが、戦争の酷さをより一層強く感じさせる。

原爆という、一瞬にして人の世の全てを奪ったもの。
劇中でも語られていた「人間が、同じ人間の上にそれを落とした」ということ。

この事実は戦後60年以上経った今でも、今から後も、戦争を知らずに育った私達も、忘れてはいけないと思う。
生き残った分、幸せに生きなければならない美津江と同様、今の世に生きている私達の、それがせめてもの務めだと思う。

 映画のラストのシーン
映画の良さ、映画でしか創れないカットが光っていて秀逸だった。

今年4月に亡くなられた黒木監督を、「ありがとうありました。(劇中の美津江が父に送った言葉)」と偲びたい。


 さて、映画の後に美酒を
広島の美酒(8月4日ブログに関連記事)は今日は間に合わず代わりに
自分の好みで購入したのがこのお酒。
瀧鯉・純米吟醸「霧の六甲」うすにごり酒<木村酒造>
   瀧鯉3.jpg  瀧鯉.jpg
        
最近この手の発泡性のお酒を飲む事が多いですがにはいいですね。
滓の割合が少ない薄にごりというのも好みです。

静かにボトルを傾け、滓を転がしていきます・・・・写真でお分かりでしょうか、滓を混ぜ合わせてもこの色です。
そっと栓を開けグラスに注ぐと発泡の跡がプチプチと…「早く飲んでね」と語りかけられているよう。
一口目は発泡が強く、お酒がドライに感じて旨みがあまり味わえなかったのですが、少し間をおいてからいただくと柔らかい麹香が“霧のように”広がってきました。
日本酒度は表示がありませんが、そう甘くはないです。むしろ発泡も弱まるとさらっと優しいお酒だと感じます。

 映画の中で、お茶を勧める美津江に「わしはよう飲めんのじゃけ」と言う竹造。亡霊だから食べたり飲んだり出来ないんです。

もし・・・親とか親しい人が逝ってしまって、もし、ああやって出てきてくれるなら、私はきっとお酒の盃を交したいと思うだろうなぁ・・・。



posted by ぺろんぱ at 11:57| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記
この記事へのコメント
こんばんは。
ずいぶん前の記事にお邪魔してしまいました(-_-;)

そうでしたか、黒木監督は2006年に亡くなられたのですね。
残された私達は、作品の訴え、監督の訴えをしっかり受け取らなければいけないんですね。
そして、ぺろんぱさんと同じく、こんな惨い現実があったことをこれからも忘れてはいけないと、私も強く思いました。
アメリカでこの原爆を製造した場所で記念館ができたとか。
被害状況(広島・長崎の)はあまり公開しないようにしたという報道を知りましたが、心底驚きました。
何のための記念館なのかと。

>映画でしか創れないカットが光っていて秀逸

そうでした!! あの父娘の家はあそこに建っていたのですよね!! あの骨組みだけのドーム屋根が、傷ましくて、目に染みました。
Posted by あぶく at 2013年08月31日 00:31
あぶくさん、いらっしゃいませ。
前の記事にでもコメントは大歓迎です、宜しくお願い致します。

歴史上で何があったか、先ず知って(解釈のし方は人それぞれでしょうけれど)、忘れないということが、最小限、我々にできることかと思います。

>アメリカでこの原爆を製造した場所で記念館ができたとか
>被害状況(広島・長崎の)はあまり公開しないようにしたという報道を

ラスベガスの資料館でしょうか。
核の実験場だったそうですね、かの地は。
(その資料館と違っていたらごめんなさい!)

アメリカでも政治的論争は尽きない問題でしょうけれど、少なくとも自国が作って自国の判断で落としたソレがもたらせた惨状はきちんと伝えて欲しいですね。

>骨組みだけのドーム屋根が、傷ましくて、目に染みました

私は広島のドームを一度訪れただけですが、その時、一人で訪れていた欧米人の学生らしき若き男性が熱心にカメラでそれを撮り続けていたのを見て、何かしら言い知れぬ熱い思いがこみ上げてきたのを覚えています。


Posted by ぺろんぱ at 2013年08月31日 13:42
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せめて今日くらいは 2006年8月6日
Excerpt: ちょうど1年前の2005年8月6日にこのブログで 「せめて今日くらいは」という記事を書きました。 私の気持ちは1年前と同じです。 *被爆写真
Weblog: 為替王
Tracked: 2006-08-08 18:19