これは池谷薫監督によるドキュメンタリーである。
七藝があれほど混んでいたのも珍しい・・・上映の40分前に着いたのに、キャパ95席の映画館でもう既に整理番号は70番に近かった。

story
中国に残されたのは孤児だけではなかった・・・。第二次世界大戦終戦当時、山西省にいた2,600人もの日本陸軍将兵が、ポツダム宣言による武装解除を受けることなく中国の内戦を4年間も戦った。「戦争責任の追及を恐れた軍司令官の画策」だと訴える元残留兵たち。「勝手に残り中国軍に志願して戦争を続けた」と戦後補償を拒む国。元残留兵である奥村和一(オクムラワイチ 80歳)が、中国にまで渡り真相を解明しようと奮闘する姿を追ったドキュメンタリー。
(情報誌『Lマガジン』CINEMA CATALOGUEより)
映画はテーマに則って方向をブレさせることなく創られていくのに対して、ドキュメンタリーというのは否応なしに“現実”がこぼす“矛盾”をも映し出すことがあると思う。
本作で追う奥村和平氏も、時として「自分でも予期せぬ感情」が己の中に湧き上がるのを認めざるを得ない場面があり、そこにドキュメンタリーのリアリティーを感じた。
それはある意味、観る側の「美しいものは美しいままであってほしい」という期待を裏切ることにもなったが、それこそがドキュメンタリーの本質ではないかと、まずはそんなことを思った。
内容に触れよう。
冒頭、靖国神社でのシーン。「国から命じられて戦って死んでいった人達を“神である”だなんて・・・・そんな“ごまかし”を私は許さない。」と強く言った奥村氏の言葉が胸に深く残った。

靖国問題と山西省残留問題は、争点が違う。
その点のブレを感じた人も、もしかしたらいたかもしれない。でもこの奥村氏は「補償云々より、真実を追及することで戦争の惨い実態を訴えたい」と言っておられた。戦争の実態という視点で考えれば、そこにブレは無かったと私は思う。
国が行った大義あることと、その大義の名の下に踏みにじられた人達。
本作では断定こそしていないが、奥村氏ら残留兵は、A級戦犯として責任を追及されることを恐れた軍司令官が自らの安全な帰国と引替えに中国軍に“売られた”と語っている。
そして国がそれを隠ぺいし続けていることも。
しかし、最高裁は上告を棄却・・・国のために蟻の兵隊となって戦った彼らは、またしても国という大きな権力の前で蟻のように踏みにじられてしまったわけだ。
中国に渡ったことは徒労ではなかったけれど、中国軍の元参謀に面会を求めた時に「公用で来たのか?私用で来たのか?」と開口一番に言ったその人物から「真実」が語られるとは到底思えなかった。
そしてこの中国行きは、奥村氏に「彼が多くの中国人を殺した日本兵の一人であった」という封印していた過去を甦らせることにもなる。
過去の事実に、彼は苦しむ。

あらためて、戦争とは人と人が殺し合うことなのだと思った。スクリーンに映っているのは年老いたごく普通のおじいちゃんなのに、この人がかつて人間を銃刀で突いたのだと思うと、ひどく暗い気持ちになった。
そのもう一つの過去があったからか、奥村氏は戦争の体験を殆ど黙して妻には語っていないと言う。
しかし、戦時下で多くの日本兵に輪姦されたという当時16歳だった女性が、訪ねて来た奥村氏(氏はこの輪姦とは無関係)に言う。
「貴方は強いられて(中国兵の殺戮を)やった。それを奥さんにはもう話してもいいのでないか。」と。
そう語れる強さをもったこの女性の姿に、辛酸を舐めてきた人間だけが持てる慈愛と“それでも明日を見つめようとする”人間の逞しさを感じて、私は深く心を打たれた。
最高裁で敗訴した彼らが、真実を暴き、補償を受けられる日は来るのだろうか・・・生きているうちに。
自分が犯した罪も含めて“真実”を知りたいと叫び続ける奥村氏。
80を過ぎて、いえ、そんな高齢であるからこそ「今しかない」と戦いを続ける氏の姿に、では我々世代の人間には何ができるのかと考えた。
この日は友人のN子と逢い、早い時間から外で飲んで、後、私宅でワインを・・・。
結果的にはしたたか酔ったけれど、その平和なひと時に感謝。