シネリーブル梅田でイスラエルの映画 『 靴ひも 』 (ヤコブ・ゴールドヴァッサー監督) を観ました。
梅田のシネリーブルはかなり久々の訪問でした。

<story>
発達障害があるガディ(ネヴォ・キムヒ)は母親の死によって、父親のルーベン(ドヴ・グリックマン)と約30年ぶりに暮らすことになる。明るく人なつこい性格のガディだが、決められた生活習慣を頑なに守ろうとする一面も併せ持っていた。長い間息子と疎遠だったルーベンはガディへの接し方が分からず最初は困り果てていたが、父子は少しずつ打ち解けていく。そんな折り ルーベンは末期の腎不全と診断されてしまう。
ソーシャルワーカーの勧めで特別給付金を申請することになり、その面接の場でガディは支援が必要であるとアピールするため靴ひもを結べないふりをするのだが・・・。(※映画情報サイトよりの転載です)
症状の程度によることですが、施設で看てもらうか、それとも自らの手で看続けるか・・・こういう選択は常に本人とその家族に迫られるものだと思います。
特に家族にとっては殆どがギリギリのところでの苦渋の決断と思います。
ルーベンのように老いの上に持病を抱えた独り身の人間にとっては尚更のことでしょう。
ユーモラスに描かれていますが時に台詞はシリアスで重く響き、発達障害に限らず何らかのことで似たような状況を持つ人にとっては観ていて辛いことも多いかもしれません。
「息子から奪うべきものなどもう残っていない」とルーベンに言わしめるほど、確かにガディの半生は苦しいものだったろうと思います。しかしガディだけに焦点を当てるのではなく、そこに父親の不治の病を平行して描いたところに本作が為す意味があったように思いました。
臓器移植を受けなければ助からないルーベンと、父を救いたい一心で自らの臓器を差し出そうとするガディと。守り守られる立場が、それまでの二人の関係に於いて位相を変えた瞬間だったように感じられました。
互いを想う気持ちは同じで相手を愛するが故に抗ってしまう気持ちもまた同じ。そして助け合うことも同等のものではないか、と。 何かを「背負う」というのとは少し違う、ましてやそれは一方からだけのベクトルでもないはずだ、、、そんなことをこの映画を観ていて感じました。双方が対等でありえたからこそ本作のあの結末があったように思いました。
「一度目は、結ばなかった。二度目は、結べなかった。三度目は、・・・。」
三度目の靴ひもの結び、あれは大きな意味での‘自立’なのかなと感じました。

映画前に見上げたスカイビル越しの空。
この映画のチラシのように青くきれいな空でした。

そして(予告通りの?)熱燗。 画にはないけどエイひれも。
二十代の頃に職場で知り合った旧知の友人との数年ぶりの再会でした。
昔話に花を咲かせながらしみじみとお酒の盃を交わせたことで ふんわりまぁ~るい 気持ちになれました。
また逢う日まで互いに元気で。
スカイビル越しの空、いつも見とれてしまいます。
冬はより、空が高い気がして。大好きです。
重いテーマを、ユーモアを交えて暖かく描く作品は好きだなぁ
そんなことを感じました。
Yururiさん、お越し下さり嬉しいです。
今年に入って最初に観た映画『だれもが愛しいチャンピオン』もこんなふうにシリアスで重いテーマをユーモアを交えて温かい眼差しで描いていた作品でした。(その時もYururiさん、コメントくださっていましたよね、ありがとうございました(^^)。)
涙した後にも前を向けるのがやっぱりイイですよね。
スカイビル越しの空、また近いうちに眺めたいものです(*^-^*)。