2020年11月14日

「 福田眉仙展 」 と 「 肖像画の魅力展 」


 今回は姫路市立美術館で開催(11月15日で終了します)の 『 日本画家 福田眉仙展 』について少し書きます。

実は、これは特段興味を抱いていたわけではなくスルー予定でしたが、10月29日からコレクションギャラリー(大型企画展や常設展とは別に館内の別スペースで小規模に催される企画展です)で『 肖像画の魅力 』展が開催されたため、それが観たくて ならば大型展の眉仙展と一緒に と思い立ちました。

人物画、好きなんです。


眉仙展パネル - コピー.jpg 眉仙展チラシ - コピー.jpg

 福田眉仙(1875~1963)は若き頃より日本画で頭角を現し盛んに画活動をしていたようですが 「日本美術院の先輩であった横山大観との画の手法をめぐる意見の相違から中央画壇を離れた」 とありました。芸術家として双方共に譲れぬ信念があってのことと思いますが、いつの世も人生は波乱に満ちているものなのですね。
眉仙は「画の本質は写生である」という自身の思いのもと、画を描くときは常に対象を実際に見てスケッチすることから臨み、その作品は第二次世界大戦で多くが消滅したものの幾作かが再発見されて今日に至っているようです。

中国に渡り各地をスケッチして廻り絵巻に仕立て上げた<志那三十図巻>もそのあまりの時間的、距離的スケールの大きさに感嘆したのですが、緻密にかつ繊細に描かれた日本の風景がやはり素晴らしく、屏風絵・六曲一双の<富士五湖>、<紀南芳野図>や<名勝帝釈緑図>は見事でした。


 さてそして、私としてはこちらが本来の目的だった 『 肖像画の魅力 』 展。
小さなスペースなので展示作品数は25点と少なかったのですが、どれもなかなかに味わい深いものでした。

興味深く読み込んだのは展示パネルによる「解説」でした。
「肖像」とは何か、その「肖像」の中に位置する「自画像」とは何か。
以下、私自身の備忘録としたいので幾つかの文章(展示文から抜粋)をここに記します

■ 外見的特徴の再現に留まらずモデルの人格や精神性の内面的なものをも発露させ作家自身がモデルに対して抱く「思い」が投影されていることに、表現作品としての肖像画の真髄がある。
■ 再現と表現の悦妙なバランスをとりつつ、卓越した洞察力をもってモデル自身ですら気付かなかったその本質を抉り出している。

■ 作家が自らを描写する自画像も肖像の一つと捉えることができるが両者の間には明確な区別がなされるべきである。
■ 自画像は描く自分と描かれる対象とが同一であり、「自分とは何か」を見つめる行為であり自意識によって動機づけられる。制作行為そのものが作家にとってある種の思索であり、探求であり告白なのである。

なるほど。
作家にとって自画像がある種の「告白」である との一文には心がぶるっと 震えました。
どれも味わい深かったと書きましたが、とりわけ黒田清輝の <婦人像><若い青年の肖像> 、和田三造の <新聞を読む男>、エドワルド・ムンクの <腕の骨のある自画像>などは結構長く足を止めて見入った作品でした。
 
           
市美庭園 - コピー.jpg

こちらも明日11月15日で終了してしまうのですが、同館庭園で 庭園アートプロジェクト「たまはがねの響」 として、玉鋼を素材とした明珍火箸の「サウンド」と、「光」によるインスタレーションが開催されています。
私が行ったのは「光」の姿には早すぎる時間でしたが「音」空間には庭園を歩きながら浸ることができました。
神秘的なサウンドでしたよ、光の姿が加われば更に夢幻的な世界が展開されるのでしょうけれど。。。



OD バーボン - コピー.jpg

 寒かったので、訪れたこちらのお店でバーボンをお湯割りにしてもらいました。
そっかぁ・・・お酒のお湯割りってお湯の温度がきっとすごく大切なのですね。。。このお湯割り、とても美味しかったのです。


posted by ぺろんぱ at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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