2021年10月03日
ドライブ・マイ・カー シネリーブル神戸にて
緊急事態宣言 と まん防措置 全国的に両方とも解除になりましたね。
第六波の到来も取り沙汰されているし自分の中では基本的には大きく変わらない気がしています。
「不要不急の外出は…云々」も、心の隅にあり続けるのかも。
はい、でも自分にとっては必要(どうしても観たい)で喫緊課題(終映間近)の映画を観にシネリーブル神戸に行ってきました(^-^)。
ささやかな、でも自分にとっては確かな ‘非日常’ のひとときでした。
映画は『 ドライブ・マイ・カー 』( 村上春樹原作 濱口竜介監督 濱口竜介・大江崇允脚本 )です。
<story>
脚本家である妻の音(霧島れいか)と幸せな日々を過ごしていた舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)だが、妻はある秘密を残したまま突然この世から消える。2年後、悠介はある演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島に向かう。口数の少ない専属ドライバーの渡利みさき(三浦透子)と時間を共有するうちに悠介は、それまで目を向けようとしなかったあることに気づかされる。 (※映画情報サイトよりの転載です)
春樹さん原作のあの短編がこんな3時間もの映画に・・・という驚きでした。
原作の持つ世界観はそのままに、大胆な膨らませ、開展。 文字にされていなかったこと、行間に沈められていたこと、そんな形無きところを監督が監督独自の想いで言葉にし映像化したという感じ。脚本力が凄いなーって思いました。
チラシには「この作品に惚れ込み映像化を熱望」とありましたが、短編「ドライブ・マイ・カー」だけじゃなく、監督は村上春樹小説すべてを相当深く読み込んでおられると拝察しました。まるで短編から新しく生みだされた、村上春樹自身の手による長編小説のような気さえしました。
映画は長い長い導入部から始まってやがて「2年後」へ。本来の原作小説はここから始まります。
細部の設定も違う部分が多かったですが、ドライバー・みさきの生い立ちを含めた人物造形は勿論ながら、音の浮気相手であった高槻耕史(演じるは岡田将生)の 闇深いところまでへの掘り下げに、映画として私は一番心を持っていかれました。心の奥底が炙り出されてゆくに従っての高槻の面持ちの変化を、岡田将生さんは巧みに演じておられたと思います。
死してなお存在が残り続ける妻。向き合うことをしなかった真実。
しかしもう取り戻せはしない。「自分の心と正直に折り合いをつけてゆくしかない」とは、家福に放った高槻の言葉ですが、家福は自分にか欠けていたものに気付きながらもどうすることもできない葛藤を抱え、おそらく生ある限りそれを消すことはできないのでしょう。
劇中の舞台劇「ワーニャ伯父さん」の台詞がとにかく心に迫ってきます。
本来の物語「ドライブ・マイ・カー」とチェーホフの「ワーニャ伯父さん」。入れ子的に二つの物語が重なり合っているようでした。監督氏が「もう一つの原作」と話されていたのがよく分かりました。
映画の最後の最後に「再生」の兆しを感じさせてくれたのも、「ワーニャ伯父さん」での最後のソーニャの台詞に見えた諦観と慰撫?のようなものに通じることだったのかもしれません。
映像としては台詞も無く延々と映される みさきと家福のドライブのシーンが、それこそ「慰撫」のようで、観ていて重苦しい心が少なからず癒えてゆくようでした。
これはいつだったか、かなり前の神戸での一枚です。もう長いことお店でお酒を飲んでいません。
冒頭に‘大きく変わらない’と書きましたが、解除されているうちに たとえお店でなくても お日さんがいーっぱい降り注ぐ明るいところで昼酒を楽しんでみたいなーって思います。
ああそうか、こういう気持ちになるっていうことがやっぱり宣言が解除されての‘変化’なのかな・・・。
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新聞やったかどっかで目にしたのは、「女のいない男たち」の中の"ドライブ・マイ・カー""シェエラザード""木野"の3つから構成されている(間違ってたらごめん)とのことで、3時間行くんですかね、それなら・・・。
自分は「女の〜」の中では"ドライブ・マイ・カー"が一番しっくりきてました。"シェエラザード""木野"は自分がちょっと・・・となる村上色を醸し出していたんで(言う程村上作品読んでないやろがっ)(ま、そうなんですが・・・)別に観に行かんでもええか、と思うキッカケにもなったかもです。けど、やはりそのようにいろいろふくらませてこそのいい映画となってるんでしょうね。
ー高槻耕史の闇深いところまでへの掘り下げーてのが結構気になるところです。
あ、自分なりに何で奥さんがそないなことしてたのかってのは自分なりにいろいろ思ってますねん。ちょっと発表する程ではないけど。(ほな言うな)(・・・かんにん)
ほなまたです。
ビイルネンさん、お越し下さり嬉しいです。
>3つから構成されている
なるほど、です。確かに「シェエラザード」でのエピソードはかなりの部分そっくりそのまま使われていますし「木野」も「主人公に‘欠けていた’何か」という核の部分で重なるところがあるのでしょうね。
私はあくまで「ドライブ・マイ・カー」の物語と捉えていたのですが監督の中では全てがつながっていたのでしょうね。ビイルネンさんが触れてくださった「高槻の闇の部分」も「シェエラザード」にも通じるものがあるのかもと、今そう思ったりしました。
貴重なご意見、ありがとうございました。とても考えさせられました。
それから、ふと思ったのですが・・・。以前別のところで「最近の春樹さん小説には少し引いてしまう表現も有るには有る」的なことを書いたと思うのですが、もしかして自分のそれとビイルネンさんが書いておられる「ちょっと…となる村上色」というのが、全く同じではないにしろ似ている事柄なのではないか、と・・・。
以前拙ブログにも書いた通り『女のいない…』の中でどれか一つ選ぶとしたら「木野」だというのは私の中で今も変わってはいませんが、ある一部分で、私は完全には分かり得ないのだろうなと思うところがあります。遠回しな言い方で恐縮ですが(私もここでは敢えて明言しませんが)何となくそんな気がしている今です。
全くの思い違いでしたら申し訳ないです、いつかまた機会がありましたらその辺りのことをお伺いしたく思いました。
映画はこの先に機会がありそうでしたらその時は是非どうぞ、ということで(*^-^*)。
長々と書いてしまってすみませんでした。でもありがとうございました。
やっぱり!
10月にてすでに上映されていたんですね。
再上映のおかげで、お正月早々に見ることができました。
しんみりと深い映画でした。
実は導入部はそれほどピンとこなかったのですが、
家福が一人になってからグングン面白くなって引き込まれました。
原作からえらいうまいこと発展させて、
と勝手に思ってたんですが、なるほど
他の短編とも関連性があるんですね。
「女の〜」は「ドライブ・マイ・カー」以外は
未読なのですが
ぺろんぱさんとビイルネンさんのコメントを拝読して、
ますます読む楽しみができました。
「ワーニャ伯父さん」とリンクする所に感心して、
青春時代に途中で投げ出したこの戯曲を
もう一度読むべきかと悩んでいます。
Yururiさん、お越し下さり嬉しいです。
同じ鑑賞作品で語り合えるというのはやはり幸せなことです。ありがとうございます。
この監督はかなり深い村上春樹ファンであられると(作品を読み込んでおられるということで)感じました。それに比して私なんかがファンと名乗っていいのかどうか、実はちょっと落ち込んでしまいました。比べるレベルでは勿論ないのでしょうけれど…。
それはさておき、Yururiさんが『女の…』の他編を読んで頂くのは(許されるなら)お勧めします(^^)。
『ワーニャ伯父さん』、おお、私もソレ読んでいないです。読むべきですかね、本作ではかなりの存在感でしたものね。あの舞台づくりの段から何だか凄味を帯びていましたから。
私としては、同監督の、他の春樹作品についての語りを聞いてみたいなぁと感じている今です。