2023年06月25日
梨木香歩さんのエッセイを読了しました
前回ブログで書いていた、梨木香歩さんのエッセイ『 春になったら苺を摘みに 』(新潮文庫)を読了しました。
タイトルから抱くちょっぴり甘やかなイメージからは想像もつかなかったシリアスな世界も描かれていましたが、最後の方に手紙の中の一説としてこのタイトルの言葉が出てきます。
変らず歩んでゆくであろう未来の日常へ託す 希望 として。
前ブログ(6月11日付)ではまだ読み始めたばかりの頃で、「(裏表紙の解説に記されていた)‘理解はできないが受け容れる’ということの深いところで意味するものは何なのだろう…」と書いていました。
読了の今、自分なりにそれを表現すればそれは結局、「尊ぶ」ということではないかと感じました。相対する人、その人が辿ってきた人生、背負ってきたもの、それらを尊ぶ、大切にする、ということ。
異国の地で、自身が外国人である状況の中で梨木さんが肌で感じ取った微妙な感覚のすれ違い(時には激しい葛藤も!)は切なさを伴って読んだものでしたが、それぞれは普遍的な意味を持つもので、結局は「私たちが自国で送っている日常の中にこそ‘すれ違う感覚’‘けれど分かり合いたい気持ち’の繰り返しがあるのかもしれないなと感じました。
エピソードの中で著者の梨木さんご自身が自分のこととして体験された出来事が綴られた「夜行列車」は、中盤の激しい感情の昂ぶりに反して読後には静謐な余韻を残すものでした。
エッセイというより、其々が珠玉の物語のようでした。
言葉、単語の一つ一つをとても大切にされている作家氏であるなぁ、とも。
プロの物書きの作家さんに対してこんなこと書くのは失礼かもしれませんが、厳選されてそこにはめ込まれたかのような言葉たちがとても魅力的でした。
それにしても梨木香歩という人の、思考の層の厚さたるや・・・3,4歳しか年上でない人なのに 自分は何事も為せていないと思うと情けなく悲しくなりました(いや、比べることすら恥ずかしいことなのですが、すみません)。
しかしその梨木さんをしてでも、本書の最後に収められた「5年後に」の最後に、 やりたいことの見極めがつかず迷走の中にいる という意味の心情が吐露されていたことには驚くとともに、こんな私にも残りの人生を生きてゆく勇気を少しもらえた気がしたのでした。
本書を紹介してくれたUさん、ありがとうございます。
雨の季節は続いていますね。
実家の庭で目が合った(ように感じた)小さなアマガエル。
なんかわからんけど、、、此処に来てくれてありがとう という気持ちです。 達者でな。
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ー受け容れるーという言葉がずっと心にあります。(自分の場合ー受け入れるーと書いてしまいますが)
自分のやらかしたこと受け入れるのってなかなかに大変なことやなぁと改めて感じる今日この頃です。(また何やらかしてん)(…ウゥッ)
受け入れる=許すことでもあるなぁとも…。
いつも興味深いブログをありがとうです。
ほなまたです。
ビイルネンさん、お越し下さり嬉しいです。
そうなのです、「許す」ということ。私も本書を読んでいてその言葉がよぎったんです。
私の場合 ‘ 自分の来し方、これまでの人生そのもの ’を受け容れることは容易ではないなぁと思ったりしました。自己肯定感の低い人間なので。
でも本書の中の「(その人にとっての)日常を深く生き抜く」という言葉に前を向く心をもらえた気がします。
ビイルネンさんの(…ウゥッ)が少しでも晴れますように(祈)。