連休中にもう一本観ておきたくて第七藝術劇場へ向かいました。
『12人の怒れる男』(ニキータ・ミハルコフ監督作品)です。
160分の上映時間にちょっと怯んだものの、観終わった今、本作はこれ以上でも勿論これ以下でも駄目だったのだろうなと思えました。
私的に、初めのうちは[不要なのじゃないかな」と思えたシーンも、おそらくは全てに意味のある、其々の人物の人間性を想像させるにあたって必要なことだったのだろうと思えるのです。
160分・・・監督渾身の作品でした。
story
シドニー・ルメットの名作『十二人の怒れる男』を、巨匠ニキータ・ミハルコフが舞台を現代のロシアに置き換えてリメイク。
ロシア人将校である継父を殺害した容疑にかけられたチェチェン人少年ウマル(アプティ・マガマイェフ)の裁判が開始。隣人の目撃証言や物的証拠などから、当初は明らかに有罪だと思われていた事件だったが、いくつか腑に落ちない点があった一人の陪審員(セルゲイ・マコヴェツキー)が、ほかの陪審員に疑問を投げ、審議は二転三転し始める。(シネマトゥデイより)
※映画に関する掲載写真は全て映画情報サイトより転載させて頂いております。

これを単に「リメイク」と言ってしまっていいのかどうか。
「リメイク」を超えた「オリジナル」であると評される中の鑑賞でしたのである程度のオリジナリティーは予想していましたが、とにかくあのラストに向けての展開には驚かされました。
オープニングとエンディングに呈せられる以下の言葉。(by B.トーニャ)
「ささいな日常生活よりも、人間の本質に真実を求める。」(オープニングにて)
「法は強くて揺るぎないが、慈悲の力は法をはるかに凌ぐ。」(エンディングにて)
前者の言葉は、勿論初めは物語においてその意味するところが分からなかったのですが、物語が展開していくうちに自ずと納得させられていくことでした。
そして後者の言葉は、まさに監督が「それが原点であり、それが全てである」と私たちに投げかけたものではなかったかと今は思っています。
多くの内包する問題を抱え、決して平和ではないロシア。
多民族国家にある偏見と人種差別。
チェチェン紛争、(本映画制作時には起こっていなかったけれど)記憶に新しいグルジア紛争の勃発。
ソビエト連邦解体後の困窮から近年の経済的格差の増大まで・・・。

12人の陪審員たちも其々に内包する問題を抱えていました。
少年の犯したとされる犯罪をめぐる議論の中で、彼等それぞれの“怒り”や“欺瞞”、“疎外感”や“孤独感”の念が次第に噴出していく様には圧倒されるものも感じました。
それは地鳴りのようであり、雷鳴のようであり、真っ暗な密室に忍び寄る不気味な影のようでもあります。
オリジナルのアメリカ版では感じなかった“怖さ”をそこに感じた私です。
人間はみな、愚かで残酷な生き物なのかもしれないと思った瞬間もありましたね。現ロシアの混沌にとどまらず、そこには普遍的に通じる感情のうねりが見えましたから。
しかし、それでこの映画が終わっているわけではありません。
自分のうちに抱える「決して人には見せたくないもの」を曝け出すことで(自分は愚かで弱き人間であると認めることで)人はラクになれるのだとしたら、そこで初めて他者へ“慈しみ”の目を向けることができるのかも知れません。
ルメット監督のオリジナル版『十二人の・・・』にはアメリカ流の「強き正義感」が満ちていた印象が残っていますが(そして今なお観直され続けている名作に違いないと思いますが)、ミハルコフ監督の本作では、ことの真偽はおそらく第一義的な問題ではなかったのかも知れません。
真偽を見極めたうえで、“そこで、何をすべきか”が最も大切なことだと言っている気がしました。
だから本作では、“真理に到達した後での、12人全員の心と行動のあり方”に最も焦点を当てたかったのだと思うのです。
全く新しい作品に触れたような感覚でした。

密室劇でありながら、少年が心穏やかに過ごしていたカフカス地方の映像やその後のチェチェン紛争の残酷なシーンなどがフラッシュバックするように挿入され、カンフル剤のように物語の展開に緊迫感を与え、スリリングな展開になっています。
サスペンス性をはらんだ幾つかのシーンにはそれまでの展開と趣を異にする若干の違和感も感じたのですが、それも刺激的でスタイリッシュな妙味とも言えるのでしょう。
象徴的に登場する一羽の雀も、この映画に何かしら宗教的啓示が与えられているように感じます。
チェチェンの美しい風景や、彼が踊っていた民族舞踏(レズギンカと呼ばれる踊りだそうです)のシーンは、裁判にかけられている寄る辺を失ってしまった一人の少年にも、揺るぎない“彼だけの人生”が確かに存在していたことを突き付けてきます。
だから本作は「法廷劇」の域を大きく脱して、「人間の尊厳」「人間愛」を問う作品になっているのだと感じました。
BGMとして挿入される音楽は、時に観る者の不安をかきたて、時に重厚な響きで我々の心を捉えます。
BGMのみならず、“音”の使い方がとても効果的でした。
時折散りばめられるユーモアも作品世界の気高さを決して貶めることなく、ロシアの映画らしい厚みと重みのある作品になっていると感じました。

恥ずかしながらこの監督の作品は全く未見の私でした。
機会を作って他作品に触れてみたいと思います。某陪審員役も演じてらして、ビジュアル的にも名うての監督さんなのでしたぁ。
最後になりましたが、少年ウマルを演じたアプティ・マガマイェフ。
本作が映画デヴューとのことらしいですが、その“目力”には大いに惹かれました。次回作を観てみたいと思う若者でした。


ロシアなのだから、ここでの画はやっぱりウォッカでしょう・・・ってとこですが、本日のOSAKEビジュアルはこれで。仕事帰りのショットバーでの一杯、<バーボン/ベンチマーク>のハーフロックでした。
それもよし、ということで。
期待しておりますよ〜(=^_^=)
※なんであんなに時間が長くなったのかは疑問ですか、、
今日は仕事&その後のプチ宴?で力尽きました。明日には是非ともアップしたいところです。
リ・イマジネーション・・って言うか、オリジナルはモノクロでしたから、映像的には幾らでも差をつける余地はありますもんね。
何とか都合がついたら、観に行きたい所です・・(・ω・)
※中盤で、窓の外に雨が降り出しましたか?
ご覧いただき嬉しいです。
何故、今、ロシアの監督が50年代の米映画をリメイクしたんだろうと、観る前はやや不思議だったのですが、鑑賞してみて大いに納得でした。
日本人的にもタイムリーでしたしね。
本当に
>「法廷劇」の域を大きく脱して
普遍的でありつつ、21世紀ならではのものを描いてくれたのだなぁという手ごたえがありました。
ミハルコフ作品はこういうジャンルのものは珍しいという感じで、個人的には『太陽に灼かれて』あたりの90年代の作品がお気に入りですー。
というか、オレグ・メンシコフが好きでー
“謹んで”読んで頂くほどの内容でなくて恐縮至極です。^_^;
そうですね。
先ず「モノクロ→カラー」ですもんね。視覚的にも、それから聴覚的にもかなりの差はありました。(^_^)
雨は・・・厳寒のロシアが舞台ゆえか、「雪」が吹雪いていました。(あ、でもそれは全てが終わってからだったかな・・・??)
お時間の都合が付けば是非に。(*^_^*)
もうすぐ裁判員制度が導入される日本にあっては本当にタイムリーでしたね。
ヘンリー・フォンダのように牽引役になってくれる人や、本作のセルゲイ・マコヴェツキーのように納得のいかないことには(例え11対1でも)正直になろうとする人がいれば、まだ希望の持てる制度ではあるのでしょうが・・・。否、先ず自分自身が「そうであらねば!」と思わされた本作でした。
『太陽に灼かれて』ですね。
インプットしました。オレグ・メンシコフ???
顔が浮かびません(恥(・・;))・・・ますます楽しみです!(*^_^*)
楽しみにです!
ご覧になられたら、貴レヴューを楽しみにしております。(*^_^*)
京都シネマもいい作品がいっぱいかかりますよね!