18日(土)はふとしたことがキッカケで某医療シンポジウムに参加して来ました。
テーマは「認知症」です。
3部構成になっていて、第一部は映画監督の大森一樹氏が講師となって「映画で描かれる認知症」ということで、過去の様々な映画の視点から認知症を見てみようという試みでした。
「認知症」と言う言葉が使われ始めたのは2004年12月からだそうですが、同様の症例を映画のなかに描いたものとして、大森監督は下記の作品を列挙されました。殆どが洋画なのですが。
1973年『恍惚の人』(邦画)
2003年『半落ち』(邦画)
2004年『私の頭の中の消しゴム』(韓国)
2005年『明日の記憶』(邦画)
その他、『午後の遺言状』『人間の約束』『きみに読む物語』等々。
私としては最近の『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』(サラ・ポーリー監督)なんかが記憶に新しいところです。
しかし少し前にBSで観た『いつか読書する日』でも主人公の身内の人間が認知症として描かれていましたよね。
そう考えると本当にもう枚挙に暇がないのかもしれません。

大森監督は、1950年の『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)のラストシーンを“映画史に残るメイラストシーン”として挙げられ、「(私見として)これもヒロインがアルツハイマーであったのではないかと思えます」と語っておられました。
恋人に去られるショックによる精神的錯乱を描いたと取られる一般説と異を唱える、なかなか興味深い御高察でした。
上記、監督が列挙されたものの中から四作品の某シーンがスクリーンで再映されました。
『恍惚の人』・・・冒頭の10分ほどのシーンの再映。
『半落ち』・・・主人公・梶(寺尾聰さん演じる)を裁く側の裁判官の一人が実は自身でも認知症を患う父親と同居しており、その父親との葛藤のシーンを再映。(文字通り、介護は「闘い」なのだと思い知らされる壮絶なシーン。)
『サンセット大通り』・・・監督の仰る名ラストシーンを再映。(実はそこにこそ「周囲の人間が取るべき態度」が描かれていましたわけですが。)
そして、『明日の記憶』から、若年性アルツハイマーの発症が疑われる主人公(渡辺謙さん演じる)が妻に付き添われて専門医(及川光博演じる)の検査に臨むシーン。
「桜」「電車」「猫」・・・主人公が即答できずに苦悶するシーンに、初めて本作を観た時の居たたまれない想いが再燃しました。

監督が「死については二つある。身体の死と、心の死だ。この心の死が認知症であり、それ故に誰もが恐れる病なのだ。」と語っておられたのに対し、シンポジストの一人・「家族の会」副代表の女性が(大森監督に反論というのでは決して無く)「患者はみんな苦しんでいる。心は決して死んでいない。」と語っておられたのが印象的でした。
勿論、大森監督も、心が意のままにならない状態を「心の死」と表現されたのであって、決して“心が無くなってしまった”という意味でそういう表現をされたのではないと私は思っています。
誰もに起こりうるこの病を、私ももう少し深く勉強してみたいと思いました。
※映画の写真は映画情報サイトより転載させて頂きました。
そういうわけで、この土日は映画鑑賞は見送りかと思いましたが、観たかった作品でしたので今日の午後の回の上映に行って参りました。
梅田ガーデンシネマでの『画家と庭師とカンパーニュ』(ジャン・ベッケル監督)です。
柔らかな陽射しに包まれ、モーツァルトの優しい調べに送られる、まことに佳き作品でした。
近いうちにレヴューを綴ってアップしたいと思っています。
あ、でも主人公のキャンバス(ダニエル・オートゥイユ)が劇中でお水代わりに赤ワインをやたらと飲んでいたので、今日は赤ワインを買って帰りまして早速飲んでいます。
レヴューは後廻しでもこういうことだけは直ぐに行動に移してしまう私です。

DOMAINE DE GRABIEOU (ドメーヌ・ド・グラビエウ) ヴァン・ド・ペイ・デ・コート・ド・ガスコーニュ。
普段飲みのワインですが・・・。
何か漠然とーこういう状況になったらこういう感じになるかもーてものすごく説得力がありました。
実際のとこ、ーど忘れーが増えてくると、何とはなしに不安な気分になったりしますが、とりあえず、そのど忘れは放置せずに(ーあーから順番に考えていったりなんかして)できるだけ早く解決しようとしてます・・(自己満足でも)。
>しかし少し前にBSで観た『いつか読書する日』でも
>主人公の身内の人間が認知症として描かれていましたよね。
あれは独特で強烈でしたね。
拙ブログでは、こんな風に書かれてました(・ω・)
(ここから)
一方で、半ばコミカルに「認知症老人」の日常が描かれる。
午前6時に新聞を手にトイレに入り・・出て柱時計を見上げたら午前10時。
妻の姿は見当たらないが、入れたてのお茶がテーブルに置かれ、湯気を立てている。
家じゅうに妻の姿を捜し、やがて台所へ戻れば午後4時。
テーブルの上の器がいつの間にか増えており、湯気を立てている・・
妻がいなくなった“事件”を何かに例えたいが、巧く言葉が出て来ず・・最後に捻り出されたのは
「マリー・テレサ号??」などと言うトンチンカンな船舶の名前だったり(⌒〜⌒ι)
ああ、将来はこんな感覚に陥ってしまうのやろか・・(×_×)
(ここまで)
ちょっと毛色は違うかも知れませんが、
『アイリス』や
『刑事コロンボ/忘れられたスター』を
挙げる方もおられるようですね。
>『いつか読書する日』
確か、いつもは悪役ばかりの上田耕一さんが演じておられた役柄ですよね。
私も細かい描写は思い出せないのですが、(次のTiM3さんのコメント内容とちょっと被ってしまうかもしれませんが)「時間が経過しても一つの行為が完遂されていない」というような情景を、確か時計の針の推移だけで表していたような描写もあったかと記憶しています。
その描写にもすごく説得力を感じた私です。
私もビイルネンさんと同じく、何か思い出せない時に「あ」から順番に考えていくことがあります。私は「年齢」に「へヴィードリンキング」という負の要因が更に加わってしまうので、何とも不安な将来です。・・・しゅん。
『いつか読書・・・』での描写、やはり私の記憶は曖昧で、TiM3さんのご記述はより鮮明なものですよね、、、ビイルネンさんへの返信コメントにいい加減なことを書いてしまったかも知れません。^_^;
>『刑事コロンボ/忘れられたスター』を
はい!実は私もコレが凄く頭に浮かんではいたのです!!最後には自身の出演作を振り返りながら恍惚のうちに自分の犯した罪さえも忘れ去ってしまうという・・・非情に印象に残っています。
ピーター・フォークは『ベルリン天使の詩』よりも『刑事コロンボ』の印象が強いです、私。