今週の一本は梅田ガーデンシネマでの『エル・スール EL Sur』(ビクトル・エリセ監督)です。
1982年製作の作品で、今回は「ニュープリント版」での期間限定上映です。
「敬愛する監督」として名を挙げておきながら、実はこの作品は未見でした。スクリーンで観る機会に遭遇し、梅田ガーデンシネマさんには感謝の思いです。
story
1957年秋、15歳の少女エストレリャ(イシアル・ボリャン)は、父アグスティン(オメロ・アントヌッティ)がもう帰ってこないと予感する。
ただ父と一緒にいるのが嬉しかった幼い頃には、父の過去にも内戦にも考えは及ばなかった。だんだんと離れていった父との最後の記憶は、初聖体拝受式でのダンス。父の故郷、南にはなにがあるのか……。
製作はエリアス・ケレヘタ、アデライダ・ガルシア・モラレスの原作を基に「ミツバチのささやき」のビクトル・エリセが監督・脚本し、少女の目を通して暗いスペインの歴史を描く。(※story、作品写真とも映画情報サイトより転載)

美しい空気感。
まるでバロック絵画を見ているように、仄暗いトーンの中に浮かぶ柔らかな「光」、そして静かに深く存在している「闇」。
BGMは時折聴こえるピアノ曲のみと言ってもよく、フィーチャーされていたのはグラナドス『スペイン舞曲』の「第5番アンダルーサ」。
しかし劇中での祝宴場面に奏でられていた曲「エン・エル・ムンド」も“意味を持つもの”として随所に使われていたっけ。
基本的には殆どが自然に取り入れられたような「音」たち。靴音、自転車やバイクのエンジン音、鳥のさえずり・・・。
先ずは映像美、光と闇、音楽によって紡がれる、まるで古い宗教画の世界へ吸い込まれるかのような作品世界に酔います。
そして観ていくうちに、父親アグスティンの「孤独」が間違いなくスクリーンを通して私に伝染してくるのでした。
そう、孤独は伝染するものなのだなと、本作を観ていてそう思いました。
アグスティンの孤独は家族、とりわけ娘エストレリャに伝染します。
彼女が15歳の女の子に転身する鮮やかなシーンがありますが、その時に彼女の言葉で語られる「幸福を考えぬことにも慣れました」のナレーションには、この一家に影のように張り付く「哀しみ」を痛いほどに感じてしまいました。
エストレリャはアグスティンを(アグスティンの父性愛を)強烈に求めていたけれど、それをすることがまるで父への背信であるかの如く感じてしまうのは、エストレリャの感受性の深さと、アグスティンの孤独の深さによるものだったと思います。
父アグスティンが祖父と政治的に対立し、恋人と別れ故郷を後にせざるを得なくなったことは(直接的に語られることはなかったけれど)想像に難くありません。父と祖父の対立がスペインの内戦の構図と重なっていることも、鑑賞後に製作時の背景を調べて得た幾許かの史実によって何となく行きつくところではあります。

歴史と過去が、病魔のように巣食ってしまう悲劇。
しかし若きエストレリャの心は瑞々しく脈打って、その哀しい現実に抗うことを止められない。
これはスペインの暗い歴史の中にありながら、確かに息づく少女の毒されていない心と、やがて父との心の接点を求めて南へ旅立つ「エストレリャの未来」を描こうとしたのではなかったでしょうか。・・・やがての彼女の旅立ちには、だから希望の光さえ感じたのです。
El Sur・・・南へ。
鑑賞後に読んだシアター横に貼られた某誌の記事によれば、本作には続編があったかもしれないということでした。
実は、本作には「南へ旅立った後のエストレリャを描く」続きがあったけれど予算がどうしても捻出できず断念する事となり、その後にそれを「El norte (北)」と題する続編として撮る案も出たが結局それも叶わなかった、と。
しかし記事はあくまでも「否定説」を取っており、それは「推察」に過ぎないと結んでいます。
事実、こうして一つの作品として『エル・スール』が存在している以上、私はやはりこれを「ある時点での一つの完結の形」として受け止めるべきではないかと思っています。
父の死後に新たな一歩を踏み出すエストレリャ。
そこから始まるエストレリャの新たな人生を予感させるラスト、ラストシーンであると同時に始まりのシーンでもあるのです。
北の国を舞台に、南の国に秘められた過去と其処への不確かな思いを描いた作品『El Sur (南)』。
もしかしたら撮られていたかもしれない、南の国を舞台に北の国を捉えた作品『El norte (北)』。
推論に過ぎないけれど、ただ個人的に夢に描くなら、もし本当に撮られていたとしたら、きっと深く心に残る美しくも哀しい壮大な一対の作品になっていたのではないでしょうか。あくまで夢として・・・。
じゃあ私は個人的に『El norte (北へ)』を。
先日の仕事帰り、御堂筋から堂島川沿いの桜を求めて夕方の散策、ぶらりと北浜方面まで。
桜は思いの外少なく、代わりに大阪市役所横の木々の新緑とつつじが美しく、目を楽しませてくれました。


心地よい散歩疲れの着地点は、川の流れが眺められる北浜の某居酒屋さんでの一献。
<緑川・北穣吟醸>、冷酒で。軽快でさらりとした飲み口とほんのり香る吟醸香、涼やかな酒器が心を癒してくれました。
スペインの音楽家は馴染みがないですが、これを機会に聴いてみたいです。
情報ありがとうございます!
無邪気なエストレリャが、なにかをあきらめた風な彼女へと
変化しているのを見事に表現してましたね。
(時の流れを表現した並木道でシーンは素敵!)
最後に父親からある意味開放されたんかなぁ、と
晴れ晴れとしたエストレリャの表情にうれしくもあり、
ちょっとだけとまどいも覚えましたが。
「エル・スールその後」は続編として存在したら
おもしろかったやろなぁヾ(〃▽〃)ノと単純に思います。
スペイン舞曲、使われていた曲はどれも哀感漂う旋律でしたが、他の曲はどうなんでしょうね。
>時の流れを表現した並木道でシーンは素敵!
そうでしたよね!
全体的に暗い空気が漂うのにあそこは違ってました。青春の息吹を感じるような・・・。
>父親からある意味開放されたんかなぁ、と
そういうことも言えるのかもしれませんね。
実在する本人との融合はもう図ることはできないのでしょうけれど。
続編、そうですね、単純に観たかった気がしますね。(*^_^*)
ボクはDVDでしたので。
スペイン社会史との関連で語られる映画ですが、そんな知識なしでも充分に感情を受け止めることができました。
「風見鶏の家」の映像が浮かんできます。
何かを象徴しているような気がしました。
本作より少し前から『ミツバチのささやき』も限定上映されていました。
こういう試みは嬉しいですね。
>風見鶏の家
そうでしたね、アグスティンの心のように風見鶏も南を向いていたのでしょうか。
南を捨てた彼の懐古の情のようでもあり、エストレリャの南への漠然とした思慕の情の象徴でもあったのでしょうか・・・。
今度観る機会があればそこに着目してみたいです。
エリセを観たのはずいぶん前ですが、「エル・スール」は印象深いですね。新世代監督のスペイン映画もいいですが。
先程ちょっと貴ブログにお邪魔いたしましたが、多岐にわたって研究と活動を展開されているブログのようですね。
「映画」欄に拙ブログをリンクして下さっていてビックリしました。ありがとうございます。
どこで私のブログを知って下さったのか存じ上げないのですが、そんことはいいですよね、今後とも宜しくお願い致します。
さて、『エル・スール』の原作。当時のエリセ夫人の執筆ということにも興味はありますが、小説として完成度の高いもののようですね。(ネットで調べてみました。)
ご紹介いただき、ありがとうございます。『本の雑誌5月号』も明日本屋さんで手に取ってみます。
エリセ監督は『ミツバチの…』が最初の出会いですが、最も心を奪われたのは、実は『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』の中の同監督作品の『ライフライン』という10分作品でした。殆ど“神の啓示”的な??、思いもしなかった衝撃でした。
「ダイアナの選択」を観たので、blog評をあちこち探していたら、ぺろんぱさんのblog見かけました。いろいろな評があったのですが、ぺろんぱさんの評が一番しっくりきましたね。
blogのカテゴリーには「映画」作っていますが、時間がないことを言い訳に、記事はさぼっています。
「10ミニッツ・・・」は、評判になった映画ですが、見損なっていますね。レンタル屋で探してみますね。
「ダイアナ・・・」のレヴューを“しっくり”と言って頂けてありがとうございます。でもあの映画は未だ解けきれていない私です。
映画以外でもたくさん勉強させて頂けそうな稲田様のブログです!またお邪魔させて頂きますね。
「10ミニッツ・・・」も機会がございましたら是非に。(*^_^*)