先月、「好きでしょ?この監督。」と、友人Cからキェシロフスキ監督自著の『キェシロフスキの世界』(河出書房新社/和久本みさ子訳)をいただき(Cちゃん、感謝!)つい先日読了したのですが、その著書の中でこの「デカローグ 第5話」(後に劇場公開映画『殺人に関する短いフィルム』として再編)に言及した部分が短いながら最も力のこもった記述のように感じられたので、今回もう一度観てみようと思った次第です。
『デカローグ』全10話は旧約聖書の「十戒」をモチーフに撮られた十話の物語です。
初めて鑑賞した時は、実はこの「第5話」は“あまり観返したくない作品だなぁ”って感じたものでした。
ある青年の“理由なき殺人”と、司法によって処されるその青年の“絞首刑”を描いた作品です。
正視に耐えないシーンもありました。

story
旧約聖書の“十戒"をモチーフに、人間世界の様々な問題、事件、感情、人間関係、運命を描いた10のエピソードからなる連作の人間ドラマ。それぞれ1時間ずつのエピソードで、当初テレビのミニシリーズを想定して製作されたが、ヨーロッパ各国の劇場で上映された。10の挿話はそれぞれに独立した作品となっているが、登場人物はいずれも同じワルシャワ効外の集合住宅の住人で、ある挿話の主人公が他の挿話に脇役として顔を見せる。
<第5話『ある殺人に関する物語』>
ある日、青年ヤツェック(ミロスワフ・バカ)が殺人事件を起こしてしまう。殺されたのはタクシー運転手(ヤン・テサシュ)。裁判が始まり、若き弁護士ピョートル(クシシュトフ・グロビシュ)の弁護の甲斐なく青年に死刑が言い渡されるが…。(※story、作品の写真とも、映画情報サイトより転載)
著書の中でキェシロフスキ監督はこの第5話を(デカローグの中では)「本当に作りたかったのはこれだ」と述べています。
他の作品についての記述が往々にしてその生み出された背景とか制作中に困難を極めたとかの話で綴られているのに比して、この作品については、確かな強い信念と意思の表明があったように私には感じられたのです。
監督はつまり、「誰がどんな理由でそれをするかに関わらず殺人は誤り」であり、司法による死刑も殺人の一つに他ならないのだと述べています。
作品では二つの死があらゆる細部から目をそらすことなく執拗に克明に描かれています。
一つはヤツェックがタクシー運転手を殺害する場面。
もう一つは絞首刑によって青年が命を絶たれる場面。
どちらも酷いです。
描写に容赦はなく、前者は残酷極まりなく、後者はシステマチックな行為であるが故の戦慄を覚えます。

タクシーの運転手は決して好感のもてる人間ではない(どちらかといえば不快な印象を抱く)タイプとして描かれており、ヤツェック自身も(妹の死が心の傷となっている事は明かされるものの)無軌道で非常に暴力的な人間として登場しています。
そんな人間でも、無惨に、理不尽に、暴力的に、殺されてしまっていいはずは決してないのだという監督の強い怒りを感じずにはいられません。
監督はヤツェックの犯した殺人はもとより、死刑というものも「およそ考えうる最大の暴力」だと述べています。そして死刑とは「法の名のもとに行われる復讐」であるとも。
もう一つ、興味深かったのは、監督がこの作品で描きたかったことのもう一つのモチーフが「孤独(ポーランド人の孤独)」であると著述していることです。
国家の運命に翻弄され明日をも計れぬ自国の民は、拠り所を見失い希薄となった人間関係の中で歪が生じ、それがかかる事件につながっていくということなのでしょうか。
登場人物の中で唯一希望に溢れた人生を送れるであろうと目された若き弁護士ピョートルさえも、ラストでは絶望に身をよじることになるのですが・・・三者三様に救いのない「終末観」のようなものが全体を覆っていることに、この映画に「孤独」を観てしまうと言えるのかもしれません。
ただ、キェシロフスキ監督作品のファンではありますが、私は死刑廃止論に賛成とは言いきれません。
この問題については以前からずっと考え続けてきましたが未だ明快な答えに到達できません。私のみならずきっと多くの方が明快な答えを出せずにいらっしゃるのではないかと思います。
自分が犯した一つの死は自死をもってでも償う“心”は必要であり、「法」を「代理」として考えるならば、裁くのは法でも法を作った人間でもなく、自分自身であらねばならないのだなと考えます。
すみません、まだ分からないし、上手く言い表すこともできません。

本作はカメラマンの提案で、撮影に特製の緑のフィルターを使用しているそうです。
そういえば、画面が全体的に緑がかって、観ていて若干の現実離れした感覚の世界に飛ぶような気がしました。
監督いわく、「カメラに緑のフィルターを装着すると、世界はいっそう残酷で、しらけきって、空虚になる」ということでした。
最初の鑑賞時に何となく居心地のよくない感覚を味わったのは、そういう技巧のせいでもあったのかも知れませんね。
あ、本作にもキリストを想起させる謎の男性は出てきます。(10話中、8つの物語に登場)
殺人を目論んでタクシーの後部座席に乗るヤツェックを路上からじっと見据え、「(それを)するな」という具合に微かに(本当に微かに)首を横に振る場面が心に鮮烈に残ります。
観て疲れ、このレヴューを書いてて更にぐったり疲れました。
先日の面白い名前のBar(Barとは思えない店名です!)でいただいた<ジンのソーダ割り>を思い出して・・・。

グラスはなかなかステキでしょう?
先日のお花見記事にて、カレンダーの背景写真のように美しいサクラを拝見させて頂きましたが、
こちらはナント!本日 雪降る寒〜い朝です。あわわ・・・^^;
さて本作ですが、残念ながら クシシュトフ・キェシロフスキ(←絶対覚えられない)監督作品は
どれも未見です。(が、ぺろんぱさんのレヴューにていくつか有り難く拝読^^)
ある記事で“スタンリー・キューブリックが「ここ20年の間で1本だけ好きな映画を選ぶとすれば、
それは間違いなく『デカローグ』である」と絶賛した″との記述を発見。
興味ありますね〜観てみたい! しかし、2つの「死」を描いたシーンと、
ぺろんぱさんが“観て疲れ書いてぐったり…”ということは、
気力体力がある時でも、ヘタレな私には鑑賞は無理かもしれませんね。トホホ…
話題はコロッと変わりますが、先日 大好きなキデイランド(笑)で
あれこれ可愛い雑貨小物を見ていたら、「靴下にゃんこ」というキャラクターが♪
思わず、ぺろんぱさんちの猫くんを思い出しました〜ヽ(^o^)丿
それから、こちらのグラスも素敵ですね〜
でも私なら直ぐに倒してしまいそう。(^^ゞ
そ、そちらは雪っ!?
さすがは北海道〜っ!!
しかし、きっと美しいであろうその雪景色を見てみたいですね。(*^_^*)
わあ!そのキューブリック監督の発言を御存知なのですね!「最も好きな監督」とも言ってらしたようですよ。
本作、確かに疲弊感を伴うものの、シリーズで『デカローグ』をご覧になれば何かしら「明日」に繋がるものもあるやも知れません。
もしももしも、この先にいつか何処かでDVDを目にされる事がございましたら「ああ、そういえばぺろんぱが何か書いてたっけ・・・」と思い出して手に取って頂ければ嬉しいです。(*^_^*)
>靴下ニャンコ
うおぉ〜!そのキャラクター、是非チェックしたいです。キディランドがお好きなのですね(*^_^*) 阪急梅田にありますので週末にでも是非観に行きたいと思います。思い出して下さってありがとうございます。うちの猫も傍らで「Anyさん、アリガト!」って申しております(多分、いえ、きっと)。
>こちらのグラスも素敵
はい。(*^_^*)
私もつい倒してしまいそう・・・ですが!お酒が入ってるうちは・・・倒しませんっ!^_^; 完璧な飲切りを死守しますっ!
って、あんまり言うとAnyさんに引かれそうですね^_^;。はい、酔っていればきっと私も倒しちゃうと思います。
北海道にも早く佳き春が訪れますよう・・・!(*^_^*)
自分は最終章を最初観た時、めっちゃめっちゃいうかものすごーく心に残ってしまい、な、なんとその巻のDVDまで買ってしまいました。
その後、2、3回以上は観て元をとろうとしたどころか、2、3の人にもお貸ししましたが、どちらも「うぅーん・・」てな反応でした。確かに暗いっ!(独特のユーモアはある)けど、今思い返しても、最初あないに心にぐぐっときたのは、そのときの自分をとりまく状況の中で「自分が一番大切にしてる」と思ってたことがくっきりしてたからだと感じます・・。
お越し下さり、嬉しいです! 交流のウェイヴっ!(*^_^*)
デカローグ「第10話」といい、トリコロールの「白の愛」といい、ビイルネンさんのお好きな作品のタイプとして何となく共通する“色”を感じます。
ズビグニェフ・ザマホフスキも、そういえばかぶっていますねー。
「白の愛」よりうんと若い頃のズビグニェフさんがいますねー。
>確かに暗い
しかし仰る通り、ユーモアもあり、どっぷりした暗さというより“ペーソス”的なものを感じた記憶があるのですが・・・。最終章として相応しい感じの幕引きだった気もします。
>「自分が一番大切にしてる」と
その背景が何だったのか、大変興味を引かれるところです。(*^_^*)