昨日は友人達とのイヴェント、今日は京都へ絵(楽しみにしていた山本太郎展)を観に行ったりで劇場での映画鑑賞は見送ることとなりました。
若葉薫る5月よさようなら、長雨と向暑の6月よこんにちは。
先日のBS放送を録画しておいた『桜桃の味』(アッバス・キアロスタミ監督 1997年制作)を29日夜に観ましたのでそのお話をします。
キアロスタミ監督との出会いは随分前に観た『オリーブの林を抜けて』ですが、『オリーブ・・・』は鮮やかな緑一面を俯瞰で捉えた爽やかでちょっぴりコミカルなラストが印象的な作品でした。
さて、本作は・・・。

story
人生に絶望し自殺を決意した男が、ひとりの老人に出逢い、世界の美しさを教えられるという物語。97年カンヌ映画祭で今村昌平監督の「うなぎ」と共にパルムドールを受賞。
土ぼこりにまみれ、中年の男バディ(ホマユン・エルシャディ)が車を走らせている。彼は職を探している男を助手席に乗せては、遠くに町を見下ろす小高い丘の一本の木の前まで無理矢理に連れてゆき、奇妙な仕事を依頼する。「明日の朝、この穴の中に横たわっている私の名前を呼んで、もし返事をすれば助け起こし、無言ならば土をかけてくれ」と。しかし・・・。 (※story、作品写真とも映画情報サイトより転載)
監督自身の中に「自殺」を巡る様々な葛藤、自問自答があったのでしょうね。
コーランの教えでは「非」とされる「自殺」に、選択肢の一つとしての理解を示した上で、それでも尚「生きることは素敵なことだよ」と監督がそっと微笑んでくれている気がしました。
どういう経緯でバディが自殺を決意したのかは全く語られていません。
そもそも、本当に彼は死ぬ気でいたのでしょうか。
死ぬのは自分一人なのに、そして死とはそういう究極の孤独な行為であるはずなのに、何故バディはああまでして自分の死を“見届けてくれる人”を探し続けたのでしょう。
彼は実はこちら側の生の世界に、まだ片足を掛けたままでいたのではないでしょうか。
見届ける人にしても、誰でもいいかと言えばそうではない。声をかける相手をバディは“厳選”しているのです。
自分の死を“意味あるもの”としてこの世に残したいのか、はたまた死を非とする神への挑戦か、とも思われたのですが、本当のところは、バディは誰かの力によって生の世界に戻ってくる事を願っていたのではないでしょうか。
最後に出会った老人・バゲリ(アブドルホセイン・バゲリ)は、だから、偶然の出会いでは会ったけれど本当はバディが引き寄せてきた人間なのではなかったでしょうか。

「美しいものをもっと見たくはないか? 死んだらもう見られないぞ。」
シンプルでストレートなバゲリのこの言葉によって、彼は“気付かされた”のだと思います、「本当は生きたい」と願っていた自分に。
写真を撮ってあげた若き女性が残した「ありがとう」の言葉と微笑みも、バゲリの言葉と同様にバディの心の何処かの小さな部分をこつんと打ったのでしょう。
ほんの些細な出来事がキッカケでモノゴトの流れが180度変わることだってあり得るのですが、それは自分の中に“変われる”何かがあったから。
バゲリの語った「指と身体の痛み」の話はまさに天啓。
「自殺は罪だが、自分を幸せにできないのはもっと罪深い。家族や友人を傷付け、自分も傷付く。自殺だけが罪か?」
バディにそう吐露させることでキアロスタミ監督は生きることの苦悩と真っ直ぐに向き合い、決して無慈悲な否定は行わない。自殺は神が用意してくれた優しい逃げ道だとも言っています。
その上で、「この世に問題のない人などいない。」とし、「見方を変えれば世界は変わる。」と生きることの喜びをそっと伝えるのです。
熟れた桑の実の甘さを味わうことで、「死」はその間、少し遠のく・・・二つ、三つと食べるうち、それはいつの間にか更に遠くへ行ってしまっている・・・その瞬間に、人は“生きる人”になるのですね。
バディが「穴」の中から見上げた空は暗雲たち込め、雷鳴が鳴り響く。
長く尾を引く暗転の後でパッと鮮やかに広がる撮影風景。
バディは生きて、きっとこの風景のどこかにいるのだと思わされた、あまずっぱい喜びの瞬間でした。
このラストも、違う形で忘れ難いものになりそうです。
私にとっての桜桃の味。美し国の美しお酒。

これだって、生きているからこそ味わえるのですね。 <飛露喜・純米吟醸>は好きなお酒の一つです。
最後に追記:山本太郎展はとっても楽しい空間でした。美術館「えき」KYOTOで開催中です。
自分的には、バゲリがー仕事故ウズラを殺したーて点が主人公の心に1つのポイントとされた気がしてました。
ウチの桜桃ならぬ梅桃の小さな実が色付きを増している今日この頃です。(梅桃=ユスラウメ)
ついでに、佗助の歴史発見の話。
先月の23日に東条湖近くの山で、1cm程の薄黄色の目立たない花をたくさん目にしました。
帰ってから手元の本で調べたが判らず、図書館でようやく「ガンピ」の花と判明。
今まで和紙の雁皮紙(ガンピシ)、鳥の子紙という名称は知っていたものの、この花が原料になる木の花だったと知り、そして昔はこの辺りでも和紙作りをしていたのかと想像したり、この小さい花に感心。
平安貴族女性は、この紙質の良い雁皮紙を好んだとか。
ついタイトルの桜桃にこじつけて勝手話を・・
バゲリさん、全然‘聖人’って感じじゃなかったところがよかったです。
>仕事故ウズラを
あの挿話の意味が、実は今一つ理解できなかった私です。
1回観た限りでは、鶉を殺していることを「仕事だから仕方がない」って淡々と語るバゲリさんを前に急に「死」が現実味を帯びてきて、システマティックに自分が死んでいくことが怖くなったのか・・・はたまた、日常的に鶉の死と向き合っているバゲリを前に、逆に「生」の深い価値を感じ取ったのか・・・ネガティヴな面から効いたのかポジティヴな功を奏したのか、何となく今思い返しても良く分からないのです。
あのシークエンスをもう一回観返してみるつもりですが、よければビイルネンさんのお考えもお聞かせ下さいね。
この映画の「桜桃」はさくらんぼの実の方の意味だと思います。
桜桃・桜梅も両方とも「ゆすら」と呼ぶようですし(侘助さんの仰る通り「ゆすらうめ」ろも読みますが)、私の好きな日本酒<山桜桃>は三文字ですが「ゆすら」とだけ呼ぶようです。
日本の言葉は美しいですね。
‘侘助さん語り’の歴史話、ありがとうございました。
本作、ずっと昔に衛星第2で観た記憶があります。
シンプルな構成と共に、世界観もゆっくリズムだったように思います。
ラストは、どうだったかな?
私的には「アンハッピー」に捉えたように・・(⌒〜⌒ι)
>「明日の朝、この穴の中に横たわっている私の名前
>を呼んで、もし返事をすれば助け起こし、無言ならば
>土をかけてくれ」
ここ、何だかカウリスマキな感じで印象的ですね。
あ、あっちは「もし私が往来に横たわっていたら、仰向けに」
でしたっけ・・?(=^_^=)
>シンプルな構成と共に、世界観もゆっくリズム
まさにその通りです。(^_^)
ラストは賛否あるようですが“面白い作り方”です。こういう終り方もあるんだな、と。
カウリスマキの『過去のない男』のあの台詞は、「死ぬこと自体は別にどうでもいいんだ・・・」って感じの台詞でしたが、本作での「明日の朝、この穴の中に・・・」の台詞はもの凄く自死に執着した言葉でした。
でも、やっぱりどっちも「生きる」ことが描かれていたんですよねー。
ああ、またカウリスマキワールドが恋しくなってきました。(*^_^*)
(なんせ1本のテープをやりくりやりくりしてる毎日・・これまたトホホ)
えぇかげんなやつですみません!パァッと感じたままコメントしてしまいました。
ともかく、へたながら感じたことを説明するなら、
桑の実やぁ、季節やぁ、神やぁて言うてた人が、現実としては、ー仕事故ウズラを日常的に殺しているー生きるてことはそういう矛盾をうけいること、と改めて感じいった、みたいな・・白黒つけやんでよいのだ、みたいな・・。(もひとつやったですねーかんにん)
そうなのですね、「生きることは矛盾を受け入れること」、なるほどと今思っています。
確かに、バゲリさんの「指と痛み」の話もそれはそれで深かったけれど、何かが自分の心を打つ作用って、そういう何気ない日常の小さな事象のもたらす「波」のようなものによるのかも知れません。
理屈じゃないんですね・・・。理屈であの挿話を理解しようとしてた自分はまだまだアタマが固いです。
本当にありがとうございます。
ビイルネンさんのご意見を胸に、早速再見してみます!