ミッキー・ロークはある時期を境に“何か”が折れたようだった。
暫くの時を経てネットで配信されていた彼の顔立ちは変わってしまっていて、熱烈なファンでもなかった私でも、その変貌ぶりが心に痛かった。
本作よりも前にスクリーンでミッキー・ロークの顔を観たのは2001年の『プレッジ』だったけれど、その頃もまだ“どん底”の影を引きずっていたのだろうか。
劇中、音楽についての何気ない台詞だけれど「90年代は最低だった」って吐くシーンがあって、それが妙に心に残ってしまった。
アウトローであり続けた彼の、アウトロー的ヒーローとしての復活作と信じたい。

story
自らの生き様を貫き通す中年プロレスラー役がミッキー・ロークのはまり役となり、数々の映画賞に輝いた人間ドラマ。
かつては人気を極めたものの今では落ち目のレスラー、ランディ(ミッキー・ローク)。ある日、ステロイドの副作用のために心臓発作を起こし、レスラー生命を絶たれてしまう。離れて暮らしていた娘(エヴァン・レイチェル・ウッド)とはうまくいかずストリッパーのキャシディ(マリサ・トメイ)にも振られ、孤独に打ちひしがれる中で、ランディは再びリングに上がる決意をするが・・・。
(※story、作品写真ともシネマトゥデイより転載)
「人生をどう生きるか」っていうのは「人生をどう終えるか」ってことなんだと思った。
結局、ランディにはレスラーとしての彼しかなかったんだね。ミッキー・ロークが役者としての人生を貫くしかなかったように。
満身創痍、ボロボロのランディ・・・そして深い孤独。
ランディのボロボロさは“ほんもの”で、そこに美や哀愁の文字が介在するような代物ではなかった。
演じるミッキー・ロークの人生と重ねて観てしまうほど、家も家族もお金も仕事も過去の栄光も、そして若く魅力的な容貌でさえ失くしてしまった二人の境遇は悲しいくらいに相似形だ。

孤独。
自ら招いた孤独であっても、人生の終焉が見えはじめた時のそれは身を切られるほどの痛みをもたらすのかもしれない。
「君と話したくなったんだ。独りはつらくて・・・。」
キャシディを訪ねた時のランディのこの言葉には、喉の奥に熱い塊りが湧き上がってくる感じだった。
この一言で片付けたくはないけれど、彼は余りに“不器用”すぎたのだね。
上手く人生を立ちまわれるほどに、彼は周囲の多くのものを見て来なかったのだ。彼にはレスラーとしての人生があっただけだったから。
残りの人生を変えようとキャシディや娘に目を向けるのだけれど、如何せん不器用さが邪魔をしてことごとく「負」の目が出てしまう。全ては自業自得、しかしそれが彼の生きてきた「生き方」の結果だったんだろう。
だから、ランディ自身が言っていたように「痛いのは(リングの)外の“現実”の方」なのだ。
彼は根っからのレスラーであり、言い方を変えれば、レスラーとしての彼しかいないのだ。
どう生きてきたか・・・、レスラーとしてのみ生きてきたランディは、レスラーとして死んで行くことしかなかったのかも知れない。
エンディングで歌われていた(ミッキー・ロークの為にブルース・スプリングスティーンが書いた曲とか)「これ以上、他に何を求めるんだ」の詞が、そのままこの映画が残してくれた一人の人間の生き様に重なっているようだった。

事前の打合せがあるとは言いながらも激しく痛い流血のファイトシーンから一転、そこからすぅっと引くようにカメラはランディの後姿をひたすら追ってメンタルな部分へと入り込んでいく。ドキュメンタリーを思わせる味わい深さもあった。ランディを巡る女性二人との其々の終止符の打ち方も、お決まりのドラマ仕立てでなかったところが(切ないけれど)よかったと思う。
タイトルが示すとおり、この映画はあくまで「ある一人のレスラー」の物語なのだ。

アウトロー的ヒーロー、やっぱりミッキー・ロークはスターでい続けてほしい。
ミッキー・ロークといえば『シンシティ』での来日キャンペーンで
壇上での暴れっぷりに他の共演者らがドン引きしてましたね。
そこにブルース・ウィルスが居たとしても止められなかったでしょう^^;
この『レスラー』の予告編を観る限り、容姿も含め人間としての資質も変わったんでしょうね^^
因みに本作以降のオファーがすでに8本もあるとか。
この映画、ミッキー・ロークの代表作に
なってしまいましたね。
映画は終わっても俳優人生は続くミッキー・ロークにとって
これ以上の映画をつくるのは奇跡に近いと思いますが
奇跡は二度でも三度でもあると信じて次の映画を待っています。
先週から行く機会はいつにしようかと考えていたんですが....予告編みて興味深々でしたので。
> エンディングで歌われていた(ミッキー・ロークの為にブルース・スプリングスティーンが書いた曲とか)「これ以上、他に何を求めるんだ」の詞が、・・・
ラストも期待して、今週観に行きます。
「ソレイユ」では、まだ先のようです(×_×)
『レインメーカー』『ダブルチーム』とか、
ちょこちょこっと「復活ぎみ」な作品はあったんだけど、
なかなか火が灯らなかったようですね・・
何となくスタローンに通じる「ここにいるぜ!まだ終わってねぇぜ!」な叫びを感じはするんだけど・・その声が嗄れ過ぎててここまで聞こえません(×_×)
みたいな勝手な印象を覚えるのは、ワタシの悪い邪推癖のなせるわざでしょうか、、
うーん........撮り方がドキュメンタリータッチですね。ステージに向かうランディー、控え室のレスラーたち追っかけて撮っている感じがあってリアル感が感じられました。
彼の場がリングにしかないというのもかなり悲しいですね。ハッピーじゃないけど本人にとってはハッピーに終わったのかもしれないけど。
はい、これは「観たい!」度の高かった作品です。(^_^)
『シンシティ』は未見です。(T_T)
暴れっぷり?! ドン引き?! 何となく想像できるだけに怖い。^_^;
私の中でのロークは『エンゼル・ハート』です。デニさんも出てらしたし。
『レスラー』でのロークさんは、多分初めての人は『ナインハーフ』の時のロークさんと同一人物とは思わないでしょうね、誰一人として。
でもいろいろあって、全てはプロフィールだと・・・ローク自身がそう思えるといいですね。
オファー8本!凄いですね!
でも(実は心の奥では)どん底の経験を適度に引きずってて欲しいです。(*^_^*)
そうですね、奇跡を二度・三度つくる「奇跡」を運んでもらいたいですね。
人生って分からないものですね。
若き頃のミッキー・ロークが今の自分を決して想像していなかったであろうこと、どん底と言われた時期には復活などあるとは思えなかったかもしれないこと、、、分からないですね。
先に観に行きましたが今は同じ地点ですね(*^_^*)。
カメラワークが何となくドキュメントっぽかったですよね。
本人にとってはやっぱり幸福だったのだと思いたいです。リングに立つ自分に酔えていたと思います。
幸福の形って様々ですね。
ソレイユで上映の際は、気が向かれましたらば御鑑賞下さいね。
スタローンのロッキー復活映画と違うのは、本作でのランディは最後もやっぱり決してヒーローとして終わっていないっていうところでしょうか・・・私なりの感じ方ですけれど。
邪推とは思いませんが、TiM3さんのそんな思いは「ならば見極めてやろう」的精神に通じるものがあると思っています。(*^_^*)
> この一言で片付けたくはないけれど、彼は余りに“不器用”すぎたのだね。
確かに彼は不器用でしたね、特に身内に対しては。
でもレスラー仲間に対しては、いい言葉をかけていましたよ。若手が頑張っているとほめたり、他での良いうわさを聞いたと勇気付けたり。
だから本当はそんなに不器用じゃないんだが、レスリング以外に関してはどうしても臆病だったのかもしれないですね。
> ドキュメンタリーを思わせる味わい深さもあった。
面白いタッチの映像でしたね。レスリングではランディーの後姿を追いかけるシーンがあり、あれってドキュメントできですよね。
再びのお越し、ありがとうございます。(*^_^*)
ランディは“レスラー”として生きてきた人生しかなかったのだろうと思うのです。
故に、“リングの外の世界”では上手く立ち回れなかったのでしょう。
west32さんの仰る通り、リングの仲間に対しては“いい顔”で接していましたよね。「臆病」という言葉、まさしくその通りだと感じました。
ランディの後ろ姿は、孤独の「コ」の字が浮かび上がるようで、それでいてリングの上での後姿にはレスラーとしての「誇り」の二文字も見えたような気がしました。
ご覧になってらしたんですね。見逃していました。
映画館から遠ざかっていましたが、
久々の劇場鑑賞がこの作品で、じんわり満足感を得ることができました。。
仰るとおり、レスラーとしてしか生きてこなかったランディの、
ある日或る時、それが淡々と描かれているに過ぎないのに、
キャストが行間を埋め尽くす人生の味わい。
いい映画でした!
>キャストが行間を埋め尽くす
そうでしたね、これは「ランディの映画」であると同時に「ミッキー・ロークの映画」でしたよね。
>淡々と
ドキュメント風の作りにも逆に味わい深さを感じましたね。
ロークさんの再びの渾身作を待ちたいです。(*^_^*)
昨夜、ソレイユ(高松)で観て来ました☆
レスラーと言う「不器用な男のドラマ」の背後に、
ダンサーと言う「不器用な女のドラマ」も確かに(薄らとながら)流れていて、そこにも注目してしまいました。
マリサ・トメイさんの体当たりぶりが『チョコレート』におけるハル・ベリーさんを連想させてもくれました。
またミッキー&マリサの共演を観てみたいものです(=^_^=)
ソレイユ、上映作品のチョイスがなかなかの劇場のようですね。
>不器用な女のドラマ
なるほど、私も同性としてもっとその点にも着目して記述すべきだったかもしれません。
不器用な生き方は同じなのに一つの線になり得なかったのは、やっぱり互いに不器用だったからなんでしょうか。ほろ苦いなぁ。
マリサ・トメイさん、いいですよね。
適度に経年を感じさせる小皺がまた魅力的でした。