今週、午後半休が叶って映画を観に行ってまいりました。
向かったのは九条・シネ・ヌーヴォ。鑑賞したのはブルガリア映画、『ソフィアの夜明け』(カメン・カレフ監督)です。
ブルガリアって可憐なヨーグルトのイメージが強かったせいか、富裕国ではないにせよもう少し穏やかな空気に満ちた国かと思っていました。
でも鑑賞後は自身の勉強不足を恥じ入る気持ち。
実際は、世界はかくも不安に満ち、かくも偏狭な自己愛に傾きつつあるのだったから。
story
ブルガリアの首都ソフィア近郊で暮らす17歳のゲオルギ(オヴァネス・ドゥロシャン)は、坊主頭にしてネオ・ナチ集団の仲間とつるんでいる。彼の年の離れた38歳の兄イツォ(フリスト・フリストフ)は、木工技師として働きながらドラッグ中毒の治療を受けていた。そのせいで投げやりに生きるイツォだが、彼にはアーティストとしての才能もあった。ある日イツォはある事件に遭遇し、トルコ人のウシュル(サーデット・ウシュル・アクソイ)と出会う。 (※story、写真とも映画情報サイトより転載させて頂きました。) 主演のフリスト・フリストフは本作撮影終了間近にドラッグの過剰摂取事故で急逝。

不穏な世界情勢をとことん突き付けられますが、本作はまごうことなき“青春の物語”でした。
悩める若者たちは皆痛々しく息苦しくさえあるのですが、彼らの「存在」そのものは“鮮やか”なのでした。
答えの出ない、是なのか非なのか、個々の心の“たゆたい”の曖昧さ。それさえもがこの映画の魅力になっていた気がしました。
持って行き場のない鬱屈した思いや、危険であろうとも強い統率力を持つ「集団」に帰属せずにはおれない不安感、自分自身そして他者への“怒り”の感情などが、美しいピアノの旋律と共に時に激しく時に静かに押し寄せてくるのでした。
セラピストがイツォに語りかけた、生きていく上での「心の支え、信仰」の大切さ。(信仰は広義の「崇信」と私は受け止めましたが。)
そういえば、「もしかして神だったのか?」と思われる老人が現れます。段ボールを引きずる一人の老人。
クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』に登場する神の化身たちを想起させるものがあり、不思議な余韻を残すシーンでした。

唐突に終わったかのようにも思えるラストですが、私は希望ー夜明けーを感じ取れた気がしています。
あの行動に出たイツォが、私にはソフィアの夜明けを導くように思えたのでした。
演じたフリスト・フリストフの撮影終了直前のドラッグ事故死は、かつてのヒース・レジャーの死とも重なって悲しい翳りをもたらしました。
来ると思えた夜明けは、もしかしたら未だもうちょっと時間を要するものなのかなぁ・・・って。
でもやはり今は、あのラストに希望を信じたい思いなのです。
劇中、ドラッグ治療を続ける傍らで、まるで「依存」の対象をアルコールにすり替えるがごとくビールを飲み続けるイツォが痛々しかったです。
私はせめて“楽しんで”お酒を飲めているのかなぁ・・・なんて自身を顧みたりして。
北新地の某BARにて、シングルモルト<山崎>をオン・ザ・ロックで。
香りがとにかく素晴らしい。


水曜日に見た映画が久しぶりにぺろんぱさんと一致して
ちょっと嬉しい今日この頃♪
そうそう、あの老人のエピソードは少し不思議で印象的で面白かったですね。
なんていうか一つ一つのシーンが印象的な映画で
見ている間以上に家に帰ってからあれこれ思い出されました。
医師に語った“善き人”として生きたいというイツォの言葉には
心打たれるものがありました。
地味やけど、渋い魅力に満ちた映画。そんな感じです。
水曜ですか!私も観に行ったのは水曜でした!
もしも同じ回だったなら同じ空間で同じ映画を観ていたことになりますね。(*^_^*)
ウシュルの美しさにも惹かれましたが、イツォと彼女の恋の行方だけを追ったものでないところに深さを感じました。
元の恋人の、彼女なりの懸命な“生きる姿”(お芝居の舞台に立ってるところなんか)もさらっと挿入されていたり、ああ面白い作品だなぁって。
>“善き人”として生きたいというイツォの言葉
もがく姿を、スクリーンの前の私はどう受け止めたらいいんだろうっていう私自身のもどかしさも感じたほどでした。
>地味やけど、渋い魅力に満ちた映画
そうですね!
本当にそんな映画でした。(*^_^*)
“善き半休”を過ごされたようですね(=^_^=)
何だか同じ時間に互いのブログに行かせて頂いてたみたいですね!
TiM3さんのブログからこちらに戻ってきたらコメントが入っててビックリしました。(*^_^*)
シネ・ヌーヴォ、丁度ボージョレ・ヌーヴォーも解禁になる頃でしたし、目出度し!?
半休っていうのも、小さな幸せ感が凝縮されていいものでした。(^^)