4日(土)はテアトル梅田へドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』を観に行きました。
久々に訪れたテアトル梅田は、整理番号制から指定席制へ変わっていました。どっちがいいのか悪いのか分からないですが、少なくとも混雑時に番号を呼ばれる人達の熱気でロビーが騒然とすることは無くなっていいのかもしれません。
そんなことはまぁいいとして、この作品はとにかく観ておきたいと思っていた映画。
最近、色んな世界の様々にへヴィーな映画を観るにつれ思ってきたことだけれど、今この紛争のない世の中で暮らせている我々に出来ることは「知る」こと「考える」こと、そしてそれらを「忘れない」ことじゃないかと・・・。だから先ずは知ろうと思って行って来たわけです。
解説
広島、長崎への原爆投下がもたらした悲劇を見つめ、核兵器の脅威を訴えるドキュメンタリー。
原題は「WHITE LIGHT / BLACK RAIN」。
14人の被爆者と、原爆投下に関与した4人のアメリカ人の証言に貴重な記録映像や資料を交え、ヒロシマ・ナガサキの真実を描く。
25年の歳月をかけて本作を完成させたのは、日系3世のアカデミー賞受賞監督スティーヴン・オカザキ。
原爆によってその後の人生を変えられてしまった被爆者たちの姿、想像を絶する体験を語る彼らの言葉から、反戦へのメッセージが浮かび上がる。 (シネマトゥデイより)

折れちゃってますが、チラシです
様々な報道番組や書物等で、私自身、全く原爆のことを知らないわけでは無かったけれど(つまりある程度のことは知識として
インプットされていると思っていたけれど)、あらためて生の声による証言や訴えを見聞きすることで余りに自分がそれらの上澄み部分にしか触れていなかった気がしました。
そうじゃないかもしれないけれど、そう思わせるほどに、やはり当事者の肉声と実際の記録映像とで綴られた90分のドキュメンタリーは強く深い衝撃でした。
冒頭の、「1945年8月6日」が何の日だったか渋谷で遊ぶ若者達が誰一人として答えられなかった一連のあの映像は、今の日本で戦争に関するドキュメンタリーを制作するならどんな形にせよ必ず取り沙汰される事だと思っていました。
世界唯一被爆国である国の、その被害者の子孫である若者が、そしてこれからの未来を作って行ってくれるはずの若者が・・・ということになるのでしょうね。
ネット上でこれを「恣意的」と捉えた人の意見も読みましたが、私はちっとも恣意的とは思いませんでした。
「1945年8月6日」が何の日だったか、誰も彼らに教えなかったのだろうかという疑問ややるせない気持ちを抱くのは当然だからです。
被爆者の方々・・・。
家族を一瞬のうちに失くし、自ら命を絶つことすら出来ぬほどの地獄の苦痛を生き抜いて、ひどい後遺症と言われ無き差別に苦しみ、毎日自分だけが生き残った事をごめんねごめんねと謝り続ける女性。
「これは二度と同じ思いをする人がないことを祈って見せるのです」、そう言ってシャツを脱ぎ、周囲の皮膚がえぐられて肋骨がむき出しになった上半身をカメラの前に出した男性。
瓦礫の下敷きになり焼死していく家族を目の当たりにした男性・・・。
それら全ては想像を絶する世界でした。

8月15日、勝利の歓喜に酔い、祝歌と共にタイムズスクエアに集うアメリカ民衆のその笑顔の裏に、地獄を彷徨う日本の民衆がいたことにぞっとする思いがし、少なくとも日本人である我々はそれを思い知らないといけないと思いましたね。
アメリカが悪いとかそんなことじゃなく、まして被爆地で「(原爆は)しょうがない」と言った愚かな政治家が辞任したからと溜飲を下げて終わる問題でもない、なんだか今、自分達の国が受けた大きな傷を忘れて、またとんでもない方向にじりじりと世界が動いているような恐怖と焦りを感じずにはいられないのですが・・・。
アメリカの罪は、勿論大きいものだと思います。
あれはやはりアメリカの「核実験」であったという思いが私の中にはあります。あれで戦争を終えて、日米双方を更に多くの犠牲者が出たであろう状況から救ったというのは「後付け論」に過ぎない、と。
実際に核爆弾を落とした飛行士や、それに関わったアメリカ人の証言もありましたが、怖いほど冷静に「同情も後悔も、悪夢にうなされた事も一切ない」「設計通りに作って(計画通りに)落としただけのこと」「本当に爆発したんだな、という思いだけ」と言っていたのには、その人達個々を責める事じゃないと分かっていつつも腹立たしく且つ情けない感情が湧き起りました。
そして、インタヴューに応じた数人の後ろには更に大多数の「ヒロシマナガサキでの原爆投下は悪ではない」と思う米国民がいるのだと思うと、その感情は大きくなるばかりです。
しかし「帰還時は一様に皆、言葉が無かった」と語られたことは、戦争と言う大きな括りの中で言えば彼らもまた(形を変えた)犠牲者なのかも、という思いも過ぎります。彼らの誰かが任務を拒否したとしても、別の誰かがそれをやらされたであろうから。
一人の元軍幹部が言っていました。
「我々はパンドラの箱を開けてしまった。これからは核戦争への道を歩むことになるのかもしれない。」と。
“我々”って、最初に核を使ったアメリカ人の事なのか、そういう戦争を起こした人類全てを指しているのか、どっちなのでしょうね。
どっちでもあるのかもしれませんね。
とにかく、<リトルボーイ(広島型)>、<ファットマン(長崎型)>というふざけた名前を付けられた爆弾が一瞬のうちに殺戮したのは其々14万人、7万人だそうです。
そして、現在、広島型原爆40基分に相当する核兵器が世界に存在しているそうです。
私はこちらと「ルネッサンス」のどちらを見ようかと悩んで結局重くない方を見ました。
やはり私も見たくなりました。ただ重さにつぶされない肉体的・精神的状態のときに見たいです。
本当に私たちは忘れそうになっている、いや忘れている....人が犯した過ちを。
『父と暮せば』も併せて読ませて頂きました。
>我々に出来ることは「知る」こと「考える」こと、
>そしてそれらを「忘れない」ことじゃないかと・・・。
理想はそうなんですよね・・
しかし現実には、現代人って「知らない」「考えない」「忘れる」・・これらが特徴になってるように思えます。
が、現代人がそうなってしまった(とワタシが思ってるだけかも知れませんが)のもまた、
これまでの日本の姿・歴史を眺めて来た人々のある意味“罪”と言えること、
なのかも知れません。
こちらの映画はやはりドキュメンタリーなりの重たさはありましたが、もし機会があればご覧になってみてください。全米では確か日本時間の昨日か今日、TV放映されるらしいです。
日本でも何らかの形で広く観てもらえるようになればいいのですけれど・・・。
ややもすると日常の中で我々は「過去」を忘れてしまいがちですよね。でもwest32さんの仰る通り、「犯した過ち」は忘れてはいけないのだと思います。
あの映画の“りえちゃん”も生き残った自分を責め続けていたのですよね。
今作のドキュメンタリーでは(恐らくは)トラウマから、救えず死んでいった妹の名前を今も口に出して言えないという女性の証言もありました。
TiM3さんの仰る通り、現代の日本人の姿を作ったのも(今までの)日本の罪なのでしょうね。
救いに思えたのは、前列に未だ二十代前半と思しき若い男性が一人で観に来られていて、映画を観ながら泣いていらした事です。
泣いたからどうとかっていうのではなくて、彼は証言者の方々と苦しみを共有していたのだなぁと思えたので・・・。
USAだけで1万基以上、これは全人類を5〜6回殺傷できる数だそうです。
今日は長崎原爆の日ですね。
コメントありがとうございます。
仰る通り、今日は長崎原爆の日でしたね。
1万基ですか・・・USAは自国は保持(形を変えて、その実は保持??)していて他国に廃絶を訴えるのもおかしな論理なのですね。
矛盾に満ちたこの世界、なのですね。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-08-06-2
コメントをありがとうございました。
確かに、日本という国がアジアの他国に為した行為も忘れてはいけないのだと思います。
しかし、「原爆問題をそれらの天罰」と仰る貴論には私としては幾許かの悲しみを覚えます。
どこの国が加害者でどこの国が被害者でということではなく、みな、戦争という行為の被害者だとも言えるのではないでしょうか。
原爆投下の事実に関しては、理不尽に、そして無惨に失われた多くの命を、私は自国の民として悼みたい気持ちで一杯です。