この時期に、再び津波の危険。
今夜仕事からの帰宅後、NHKニュースで知る。
取り敢えず惨事に至っていない模様に少し安堵の思い。
どうかもうこれ以上・・・と祈らずにいられない。
3月5日のブログで記していた『晴天の迷いクジラ』を昨日読了しました。
少しばかりの感想を述べさせて頂こうと思います。
読後あらためて、タイトルの「晴天の」という言葉が心に染みました。
もやもやの世界にさっと柔らかな陽が差し込んできたような感覚に包まれて本を閉じました。
八方塞がりで自分の生きる道が見えなくなって、そこに行きつくしかないように思われた自殺寸前の三人の男女。
三者それぞれの「日々」を綴った第一章から三章までは、息苦しく痛々しくもあります。
けれど三者が出会ってクジラを見にゆく第四章(最終章)「迷いクジラのいる夕景」ではトーンががらりと変わります。いや、筆致は同じなのかも知れません、読む私の受け取り方が変わっただけなのかもしれません。でも、それほどに「誰かが傍にいるということ」がもたらしてくれる不思議な力を感じたのです。
特に第四章で登場する老女の放つ幾つかの言葉が静かに心を打ちます。
頑張らないでいいのだと、生きることに意義付けなどしなくていいのだと、自己の為す役割など考えなくていいのだと、そう導いてくれた気がしました。
クジラはただ生きている。
そして、意図したわけではなくたまたま入り江に迷い込んでしまった、らしい。
入り江を脱した後も、生き残れる可能性は半々だという。
可能性は半々。三人のこれからも、それは同じかもしれません。事実、彼らを取り巻く状況は何ら変わりないのですから。
それでも、自らの命を絶つという“座礁”の一歩手前で、それを免れた彼らの明日には昨日までと違った陽が差しているように思えるのです。
そもそも「生きる道」って何なのでしょう。
道なんて見えてなくても、その先をとにかく歩いていってみろ、そんな声も聞こえた気がしました。
先日の「いただいた赤ワインでゆっくりと独り乾杯」の画、です。
ふくよかな味わいが美味しいです。

コメントが遅くなってしまいましたが、何度拝見しても
ぺろんぱさんのネタバレなしの文章から読者に伝える表現の上手さに感嘆してしまいます。
3人の登場人物の具体的な道程は解らなくとも、
なんとなく、読んで味わった気になります。
タイトルの『晴天の迷いクジラ』というところから、それこそ哀しみの果ての"座礁"した浜辺の姿を
想像していましたから。。。
「誰かが傍に―」も、つい、価値を求め過ぎ、
ただそれだけの事の奇跡ともいえる縁に、感謝が足りないのかも、と、
そんな気になる休日の午後でした〜(*^m^*)
感嘆と書いて頂いて、とんでもないと恥入る思いです。いつももっとバシッと的を射た表現はできないものかと自己嫌悪の日々です。
誰かが傍にいてくれることも、仰る通りともすればそれ以上の何かを期待してしまうところってありますね。でも存在だけで救われることもあるのだ、とあらためて思いましたよ。
そういえば、、、泣きたいのを独りでずっと我慢していて、誰かの顔を見た途端に涙が堰を切ったように溢れだす、なんてこともあるような。そういうのも“他者の存在”の感受によるものかと思いました。