
雨の土曜、今日は十三・第七藝術劇場に『スティーヴィー』を観に
行ってきました。
「ひとりの青年が、ある少年の「ビッグ・ブラザー」になった。
10年後、青年は映画監督に、少年は犯罪者になった」という
のが映画のキャッチコピー。
145分のドキュメンタリーです。
そして、やはりドキュメンタリー・・・そこには「語る、評する」という
行為も不遜に感じられるほどのリアリティーと「重み」ありました。
監督のスティーブ・ジェイムスが、昔更正を買って出た少年・スティービーの
その後を追うのですが、再会した彼はある重大な犯罪の容疑を受けていました。
その背景にある彼の生い立ち(母親に愛されず虐待を受け続けた)が
語られるのですが・・・・。
感動を誘うように撮られているわけでもなく、現にスティービーは
時に無邪気に家族と接し、憎んでいた母親とさえ誕生日の夜を
共にしている映像が映し出される。
しかし、そこにはやはり「母親に殴られて育った、その母親はさらに
彼女の父親に殴られて育った」という事実が存在している。
この事実はやはり「重い」です。
私が感じたのは、彼はカメラを前に、語っているようで語っていない
ということ。その心の闇は彼でしか解決(するか、あるいはしないままか)
できないとういこと。
そして、彼の生きてきた今まで・・・犯罪に手を染めるまでの背景が描かれて
いるけれど、等しく(犯罪の)被害者となった人間にも伝えられるべき
大切な人生があった、という事を忘れてはいけないと私は思うのです。
そして、被害者は犯罪を受ける前の人生には決して戻れないのだという事も。
それを奪った罪は大きいのじゃないかという事・・・。
監督はスティーヴィーを擁護するだけの撮り方はしていません。
彼を非難する声も収められています。
監督は、スティーヴィーの更正役を買って出てから約10年間、彼の元を
離れていました。その間にスティーヴィーが犯罪者となっていた事に
胸を痛めるのですが、そう考えればこのドキュメンタリーを撮った事は
彼の贖罪行為なのでしょうか。
しかしそれは非難されることでは決してありません。
過去は現在に沿うもの、という意味のことを監督は語ります。
そうならば、空白の過去を取り戻したいとする心、そうする行為こそは
きっと現在のスティーヴィーの「救い」となるはずです。
誰かが彼を見ている、心配している、待っている、という事が、一番
必要でとても大切な事なんじゃないかと思うのです。
わかりません、明日になって再考すればまた違う考えが起こるかも
しれません。
今はこれくらいの事しか言えません、ごめんなさい。
映画が終わって午後3時30分。
外に出たら、十三駅前の明るいうちからのネオンや喧騒さえも何だか
嬉しく感じられました。
映画の前に十三に向かう阪急電車の車中、小さな子どもを連れたお母さん
が居た事を思いだ出しました。
座りたいよ〜と駄々をこねる子どもに「たった3駅くらい辛抱しなさい!」と叱るお母さん。
泣き顔の子どもに「あっ、電車が動き出したよ。どっちが上手に立って
られるかお母さんと競争しようか?」と言ってたお母さん。
あの子はきっと愛されてる・・・って思えました。
映画で、スティーヴィーはその後10年の実刑判決を受けました。
刑執行のその後、彼はどう思って生きているのでしょう。
雨も続いてるし、こんな夜はほろ苦いジンがいいですね。
「好きなのにいじめてしまう」から「虐待」へ行ってしまうのでしょうか・・・
私は自分が好きだし、私の周りの人(全部じゃないけど)好きだしなあ(>_<)ありえない・・・
ただ、虐待してしまう気持ちはわからなくはないかな?(幻想かもしれないけどね・・・)
深く考えてしまいます。でもやはり、虐待は
虐待を生むんですね。こういう負の連鎖って
ありますね、悲しいですね。
しかしやっぱり虐待は許せないです。
親だけを信じるしかなかった子どもや、飼い主だけを信じるしかなかった犬や猫たち・・・それを裏切る事はで絶対きませんよね、やはり。